後世にどう語り継ぐか 悲劇から80年、対馬丸慰霊祭 鹿児島

AI要約

太平洋戦争中にアメリカ軍によって撃沈された疎開船で多くの人が犠牲になりました。対馬丸沈没から80年が経ち、宇検村で慰霊祭が行われました。

対馬丸は沖縄から1500人を乗せた疎開船であり、多くの子どもたちが犠牲となりました。今年の慰霊祭には約100人が参列し、玉城デニー知事も花を手向けました。

戦争体験者がいない中、対馬丸の悲劇を後世に伝える取り組みが行われており、沖縄県と宇検村、大和村の子どもたちが歴史を学ぶ機会を持っています。

後世にどう語り継ぐか 悲劇から80年、対馬丸慰霊祭 鹿児島

太平洋戦争中、アメリカ軍によって撃沈された疎開船で多くの人が犠牲になりました。当時を知る人も少なくなる中、宇検村で慰霊祭が行われました。

80年前、太平洋戦争のまっただ中。沖縄からおよそ1500人の民間人を乗せた疎開船「対馬丸」がアメリカ軍の魚雷で撃沈されました。学童集団疎開の子どもたちが多く含まれ、犠牲になった子どもの数はおよそ800人に上ります。

対馬丸沈没80年の節目となる今年は、村の関係者をはじめ対馬丸が出航した沖縄県の玉城デニー知事など、およそ100人が参列し花を手向けました。

■玉城デニー知事■

「犠牲になられた方に謹んで哀悼の誠を捧げます。毎年慰霊祭を開催していただいていることに対し、宇検村のみなさんに対し心から御礼を申し上げます」

対馬丸の悲劇を後世に語り継ごうと8年前から始まった慰霊祭ですが、当時を知る人は高齢化が進み、去年から参列者の中に戦争体験者はいません。

戦争の記憶を後世にどう伝えていくか。

宇検村と沖縄県は5年前から平和学習交流事業として、それぞれの地域の子供達に対馬丸の歴史を学ぶ機会を作っています。今年は沖縄県と宇検村、大和村の子どもたちが、かつて多くの遺体が流れ着いた海岸で当時の様子を聞きました。

80年前、同じ年代の子どもたちが亡くなった歴史を伝え続けることは年々難しくなる中で、その必要性は増す一方です。