一家を見守る「被爆車 ダットサン」 いい時も悪い時も傍らに 長崎・小児科医の愛車

AI要約

小児科医の愛車「ダットサン ロードスター」が被爆から生き残り、家族の思い出を伝える。

被爆経験を持つ一家が戦後も医療に尽力し、愛車を大切に使い続けた姿が描かれる。

長崎の特別養護老人ホームで車は今も輝きを放っており、子や孫たちが遺志を継いで医師として活躍している。

一家を見守る「被爆車 ダットサン」 いい時も悪い時も傍らに 長崎・小児科医の愛車

 戦前から主人なき今も、一家を傍らで見守る1台の“被爆車”がある。ボディーの一部は木製。ボタンやレバーも多くなく、きゃしゃなハンドルが付いた「ダットサン ロードスター」。車の持ち主は1987年に亡くなった長崎市網場町の小児科医、今村興善(おきよし)さん=享年(83)=だった。終戦の日を前に、次女の佐藤妟子(やすこ)さん(84)=大村市=が、はっきりと残る家族の記憶と戦争のエピソードを語った。

 「今見れば、おもちゃみたいな車でしょう。原爆の時、確か出島辺りにあった長崎日産の販売店に預けていたんですが、この1台だけが残ったそうなんです」

 車は37年に長崎市の本紙屋町(現在の麹屋町)で興善さんが小児科を開業した時、父・甲子蔵(かしぞう)さんがお祝いに贈ったオープンカー。助手席に愛犬を乗せ、往診に出かける姿がよく知られていた。「秋田犬みたいに大きな犬が3頭いて、名前はオチ、ハツ、ナツだったかな。(軍用犬として)犬も戦争に取られてね。連れて行かれた日のことは覚えています。悲しかった」

 45年3月、興善さんも軍医として鹿児島県の志布志湾野戦病院に勤務。医院兼自宅は空襲に備え、取り壊されることになり、家族は西彼蚊焼村(当時)に疎開した。

 女学校に通っていた姉の道子さん(故人)は学徒報国隊として三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆。命からがら逃げ延びた場所で夜を明かすと、周りの人はほとんど亡くなっていた。

 「一番上等の靴を履かせてたのに、どうして片っぽになったの?」。母はそんなひどい目に遭ったとは知らず、尋ねた。道子さんは約1週間、縁側の隅っこに座り口を閉ざしたという。

 「いろんなものを目にして相当ショックだったはず。姉自身も重傷を負い、(頭部や肩などから)取っても取ってもまた浮き出てくるガラスの破片を毎年抜き取っていましたね。姉のお友だちもケロイドが残っている人が多かったです」

 興善さんは終戦から間もなく、無事帰還。以前から戦争を認めず、訓練の合間に隠れて英語の勉強をしたり、軍馬を写生したり。平和を望んでいたという。「父は晩年までしょっちゅう言い続けていました。『戦争は駄目だ。国から全部奪われても、与えられるものは何もない』って」

 販売店に預けていた愛車は、屋根もフロントガラスも吹き飛んでいたが、ボディーは残っていた。「塗装も剥げて、手に入ったペンキをその都度、塗っていたから、緑になったり、赤になったり。でも赤は消防車の色だから駄目と言われて、すぐ塗り替えていましたけど」

 興善さんは46年、無医村だった当時の日見村に移り、再開業した。戸石や茂木の患者が櫓(ろ)こぎの船で迎えに来て、岸から集落までは山道を歩いて往診するなど献身的に活動。車は大事に修繕しながら約半世紀、亡くなる1年前まで運転し、多くの時を過ごした。

 子や孫は遺志を継ぎ、医師として地域医療を担う。戦争を乗り越え、いい時も悪い時も一家の傍らにあり続ける愛車は長崎市春日町の特別養護老人ホーム「橘の丘」で今も輝きを放っている。