岐阜高島屋入社1期生「岐阜は栄える」高揚感、人生共にした百貨店 接客47年「いいお客さまばかり」

AI要約

岐阜市の繁華街にある岐阜高島屋が閉店する。47年間に渡る歴史に幕を閉じるこの百貨店は、柳ケ瀬商店街の核店舗として地域に貢献してきた。

最終セールでは閉店を惜しむ客の列が絶えず、31日には最終営業日を迎える。1階では400人以上にバラがプレゼントされる予定だ。

長年勤めた岩井さんは岐阜高島屋の1期生であり、地元作家の紹介に尽力してきた。彼は岐阜高島屋と共に様々な喜怒哀楽を経験し、感謝の気持ちを述べている。

岐阜高島屋入社1期生「岐阜は栄える」高揚感、人生共にした百貨店 接客47年「いいお客さまばかり」

 岐阜市の繁華街・柳ケ瀬商店街で1977年から営業してきた岐阜高島屋(同市日ノ出町)が31日、閉店する。柳ケ瀬の核店舗として商店街のにぎわいを創出してきたが、47年の歴史に幕を閉じる。

 岐阜高島屋は近年、相次ぐ大型商業施設の郊外出店や名古屋駅前の商業化の影響で売り上げが減少。売り場を大幅増床するなどてこ入れを図ってきたが、老朽化した建物の基幹設備を巡って改修工事のめども立たなかった。県内唯一の百貨店で、閉店後は全国で4県目の「百貨店のない都道府県」となる。

 今月1日からの最終セールでは連日、閉店を惜しむ客の長蛇の列ができていた。最終営業日は午前10時から、1階東入り口で先着470人に揖斐郡大野町産のバラをプレゼントする。

 岐阜高島屋美術画廊の岩井一廣さん(69)は、47年前の岐阜高島屋開業の年に新入社員として入社。売り場担当からバイヤーを経て、20年近くにわたり美術画廊で地元作家らを紹介してきた。「人生の喜怒哀楽を岐阜高島屋と共にしてきた」。大卒の同期18人のうちただ一人残った“1期生”として、「お客さまには感謝してもし切れない」と語る。

 岩井さんは揖斐郡揖斐川町出身。国内有数の繁華街・柳ケ瀬には数回行ったことがある程度だったが、関西大学に進学後、岐阜高島屋の開業予定を知る。地元での就職を考えていた岩井さんにとって「これは縁だ」と直感、入社をかなえた。岐阜市内には岐阜近鉄百貨店、新岐阜百貨店、岐阜パルコがあり「高島屋が割って入るとは。ますます栄える」と高揚感に満ちあふれた。

 開業時の従業員数は450人超だった。4月入社後は大阪で研修し、岐阜に戻って9月の開業まで準備に追われた。開店日直前にはパンフレットを市内一軒一軒に配り歩いた。当時「高島屋」の名は、岐阜では今ほど浸透しておらず「名をとどろかせてみせる、という希望にみなぎった」と振り返る。開業直後こそ現場は試行錯誤が続いたが、数年後には売り上げが右肩上がりとなり、岐阜高島屋の存在感は不動のものとなった。

 岩井さんはハンドバッグ売り場担当に始まり、企画宣伝や婦人服や雑貨などのバイヤーを歴任。95年に京都店に転勤、4年後に美術部に異動した。2005年に岐阜高島屋に戻り、美術画廊に配属された。3人の小所帯で県内の美術界をカバーするのは苦労もあったが、本場である陶芸はもとよりジャンル問わず地元岐阜の作家を多く紹介したいという一心で携わった。

 京都転勤で岐阜を離れ、10年後に戻ってきたとき、柳ケ瀬が寂しくなっていたことに衝撃を受けた。「『十年一昔』を実感した」。それでも、リーマン・ショックやコロナ禍など売り上げに響く大打撃が起きたときでさえ、店に足を運び続けてくれた客たちの顔を一生忘れることはない。「岐阜はいいお客さまばかりだった」。閉店決定後、同期たちが東京や関西から名残を惜しみに駆け付けた。「1期生だからこそ、みんなにとって思い出深い店だった。今は母校が廃校になってしまうような、よりどころを失うような気持ち」。あす、人生を共にした岐阜高島屋の最後を見届ける。

◆「岐阜に新しいバラ」 開業時のパンフレット

 岐阜高島屋開業時、社員が配り歩いたというパンフレットは現在おなじみのピンクとは異なる赤いバラが表紙に描かれ、カラー8ページ。「9月23日岐阜に新しいバラが開きます。」のキャッチコピーで、当時15店舗目だった高島屋の岐阜進出を印象付けている。屋上と11階~地下1階の各フロアの案内をイラスト付きで掲載、「暮しの夢がひろがります。」などのコピー通り、当時最先端で話題となっていたファッションやグルメの数々が、市民らの心を躍らせた。

 別添のリーフレットには当時1・2階にあった「バラのひろば」の紹介も。懐かしい姿をとどめている