1200人超犠牲の「佐世保空襲」忘れない…「公園に遺体の山」証言の遺族、追悼式で「戦争は愚かだ」

AI要約

1945年に起きた佐世保空襲で1200人以上の犠牲者が出た惨事を追悼する式典が行われた。

遺族の証言や参列者のメッセージを通じて、戦争の悲惨さと平和への願いが語られた。

犠牲者を追悼し、戦争の愚かさを訴えると同時に、遺族会の高齢化や解散にも触れられた。

 太平洋戦争末期に1200人以上の命が奪われたとされる佐世保空襲から79年となった29日、長崎県佐世保市の死没者追悼式が市民文化ホールで営まれた。空襲で肉親を失った遺族が、戦争の悲惨な実態を証言。地元の子どもたちとともに犠牲者の冥福を祈り、平和を誓った。(小松一郎)

 市史などによると、1945年6月28日深夜から翌29日未明にかけ、米軍の爆撃機が約2時間にわたって約1トンの焼夷弾を市街地に投下。市役所や佐世保署などが被災し、全戸数の約35%に当たる約1万2000戸が全焼した。死者は1200人超に上ったという。

 市は29日を「佐世保空襲の日」とし、追悼式を執り行ってきた。今年の追悼式には約80人が参列し、黙とうをささげた。遺族を代表し、同市黒髪町の山口広光さん(85)が追悼の言葉を述べた。

 当時6歳で国民学校の1年生だった山口さんは空襲警報の中、母、妹とともに近所の防空壕へ逃げた。外へ出てみると、市街地方面が真っ赤に染まり、上空を爆撃機が飛んでいた。

 翌日、市街地に行くと、公園に遺体が山のように積まれ、中には焼けてふくれた赤ちゃんの遺体もあった。警防団の地区隊長だった山口さんの祖父も犠牲となった。祖父は近所の家の消火活動をして逃げ遅れたという。助けようとした少年兵を胸に抱いたまま亡くなったとも伝え聞いた。

 山口さんは当時をこう振り返り、「動物で話し合いのできるのは人間だけ」と強調。「戦争は愚かだ。絶対に二度としてはいけない」と訴え、献花した。

 一方、佐世保空襲犠牲者遺族会は今年3月、高齢化や会員の減少により解散となった。会長を務めていた臼井寛さん(90)はあいさつで、「私は、祖母、おじ、おばを失ったが、永久に忘れられない悪夢。解散は誠に残念だが、今後も追悼式などには可能な限り参加したい」と述べた。