台所に立つのが楽しいと思えなかった彼女の12年

AI要約

シングルマザーで医師、大学教員の女性が団地を離れてマンションに引っ越す直前の台所について語る。

彼女が忙しい日々の中で料理をする苦労や抵抗感、それが少しずつ変化していく様子が描かれる。

料理と向き合うことで料理に対する責任を感じ、栄養や時短の工夫を重ねながら抵抗感が和らぐ様子が伝えられる。

台所に立つのが楽しいと思えなかった彼女の12年

〈住人プロフィール〉

44歳(医師、大学教員・女性)

団地・2LDK・大江戸線 本郷三丁目駅・文京区

入居12年・築年数約38年・長女(15歳)と2人暮らし

 <この12年、いろんな感情を経験した台所との別れを前にして、もし可能でしたら取材いただけると嬉(うれ)しいなと思い、勇気を出してご連絡しました。>

 取材応募文の行間から、なんとも万感迫るものを感じた。医師と大学教員をしながら、シングルマザーで子どもを育てている。離婚以来、この団地で暮らしてきたが、マンションを買ったので近々越すという。

 ずいぶん経ってから取材依頼の連絡をすると、引っ越し日が差し迫っていた。だが「ぜひ話したいので」と、転居の4日前に実施することになった。

 訪ねた居間の隅には、段ボールが積み上げられていた。

 「ギリギリまで料理をするので、台所は手つかずでちょうどよかったです」

 子どもの頃から団地住まいだったので、田の字形の間取りや、狭い台所には愛着があるとのこと。

 台所は奥に細長く、無印良品のキャビネットをパズルのように塩梅(あんばい)よく配置。あるべきものがあるべき場所にあり、狭いながらも非常に使いやすそうだ。

 流し台下の収納庫には、梅酒や梅ジュースがズラリ。結婚していた2008年のものもあった。

 冷蔵庫には、土日に作り置きしたラタトゥイユや手羽先の梅煮が。その日の取材後、大学に持っていくという弁当箱を、見せていただく。

 「娘の弁当の残り物をさっきささっと詰めただけです」と恥ずかしそうだが、だし巻き卵に焼きサバ、小松菜のおひたしと気取らない総菜が、いかにもおいしそうだった。

 人に見せるつもりなどなかった不意の弁当箱も、作り置きが並ぶ冷蔵庫も、間違いなく、料理をする人の台所だ

 ところが、彼女は首を横に振る。

 「いいえ。ずっと綱渡り。働きながら大学院に通っていた時期もあり、時間もお金もありませんでした。夕食作りは毎日15分1本勝負。特に子どもが小学生の頃は、料理を楽しむという実感は、年に数えるほどしかなくて。家に子どもといる時間も短く、台所では、イライラしたり落ち込んだりが大半でした」

 娘が進学した中学には給食がない。3食作らなければいけない今は、別の意味で大変らしい。

 「小学校は給食があるから朝夕は適当でいいって、どこか安心していたんです。でも3食私が作るなら、栄養バランスを考えなければと。次第に、子どもの食に対する責任を強く感じるようになりました」

 手のかからない年齢になったこともあり、栄養や彩りを考えたり、時短の工夫を重ねたりしていくうちに、料理や台所に立つことへの抵抗感が少しずつ薄れていった。

 「そう気づいて、昔から読んでいて勝手に共感し、励まされている『東京の台所』に応募しようと思いたったのです」