住宅街に残る戦国の城 「中城」(後編) 山城ガールむつみの埼玉のお城出陣のススメ

AI要約

中城は、かつての姿を良好にとどめ、戦国時代のタイムカプセルのような存在です。

城主には、鎌倉時代の猿尾太郎種直や建武年間の斎藤六郎左衛門尉茂範などが伝わっています。

現在の城の姿は戦国時代のものであり、15世紀後半に築城されたと考えられています。遺構や伝承からその時代を感じることができます。

住宅街に残る戦国の城 「中城」(後編) 山城ガールむつみの埼玉のお城出陣のススメ

中城は、東武東上線小川町駅から徒歩15分ほどの住宅街に、かつての姿を良好にとどめています。住宅街にぽっかりと姿を残す中城は、まるで戦国時代のタイムカプセルのようです。中城の城主は、土地の伝承によると、鎌倉時代には猿尾(ましお)太郎種直、鎌倉幕府滅亡後の建武年間(1334~1336)には斎藤六郎左衛門尉茂範と伝わります。

猿尾氏の詳細は不明ですが、中城に隣接して「増尾」という地名が残っています。漢字は違いますが、この住所はかつて猿尾氏がこの地を領していたことを想起させます。また、猿尾氏には面白い伝承が残っています。鎌倉幕府滅亡時、猿尾氏は鎌倉幕府最後の将軍守邦親王をこの地に匿い、助けたというのです。助けられた守邦親王はこの地に住み、八幡社を建てたといい、親王が没した際は、猿尾氏が中城近くの大梅寺に手厚く葬り、弔ったと伝わります。守邦親王が鎌倉から逃げてきたという伝承は、この地が鎌倉とつながる要所であったことを想像させてくれます。

また、建武年間の城主として伝わる斎藤氏に関しても詳細は不明ですが、16世紀後半に鉢形城配下の北条氏家臣に斎藤氏の名が見えます。もしかしたら、この中城に伝わる斎藤氏となんらかのつながりがあるのかもしれません。

このように鎌倉時代から建武年間の伝承が残る中城ですが、今に見える城の姿は戦国時代のものです。発掘調査からも、15世紀後半の築城と考えられていて、扇谷上杉氏家臣の

上田氏に関連する城だと考えられています。現地には二重土塁、横堀、横矢掛かり、虎口などの遺構が良好に残っていて、戦国時代を存分に体感できます。主郭はテニスコートになっていますが、かつての広さを十分に感じることができます。主郭南西には大権現堂が建っていますが、ここはかつての櫓台と思われ、当時は櫓が建っていたと考えられます。

このように、伝承や遺構が楽しめる中城ですが、なんと言ってもこの城の歴史ロマンを物語るのは太田道灌来訪ではないでしょうか。『太田道灌状』の文明6(1474)年のことと考えられている記事には、扇谷上杉氏家臣の上田上野介が在郷していた「小河」で道灌が一泊したことが書かれています。この「小河」が現在の小川町を指し、道灌を泊めた上田上野介の居城こそが中城だと考えられているのです。戦乱が広がる関東において、東奔西走して活躍した道灌。その渦中にあった道灌が来訪した可能性が高い中城に立つと、興奮を覚えずにはいられません。

上田氏は小田原北条氏が北武蔵に勢力を広げてくると、北条氏に属しました。北条氏が北関東の拠点とした鉢形城の支城として、中城は重要な役目を担ったと思われます。また、上田氏は松山城(吉見町)から、菩提(ぼだい)寺浄蓮寺(東秩父村)のある安戸にわたり領地を展開していたと考えられていて、その領域の真ん中に位置する中城は、上田氏にとって重要だったことでしょう。中城は軍事的な城郭というよりも、城館のような形をしているので、もしかしたら、地域の中心の政治施設だったのかもしれません。いずれにしろ、上田氏の主要城郭である腰越城(小川町)や松山城などと連携していたと考えられ、中城から周辺の山々に築かれた城を眺め、当時の様子を想像して思いをはせるのも楽しいです。