信長も重視した中世の城跡を初公開 時空超え「青地城」散歩 滋賀

AI要約

滋賀県内に1300あったという中世城郭。草津市青地町の青地城は初めて一般公開され、地元の歴史グループが主催。青地城は青地氏の居城であり、戦国ロマンに彩られる城跡だった。

青地城跡では、土塁や空堀が整備され、その歴史的重要性が再確認された。信長にとっても重要な立地であり、戦国時代の思いをめぐらす来場者も多かった。

公開を企画した歴史と文化を学ぶ会の活動を通じて、地元の歴史を後世に伝え、地元の子供たちにも城跡の魅力を伝える取り組みが行われた。

信長も重視した中世の城跡を初公開 時空超え「青地城」散歩 滋賀

 滋賀県内に1300あったという中世城郭。今は住宅地になっていても、古文書をひもとけばかつて城だった場所も多い。同県草津市青地町の青地城も、大部分が私有地や市立志津小学校の敷地となっているため目に留まりにくいが、土塁や空堀が残る立派な城だった。8月初旬、地元の歴史グループの主催で初めて一般公開された。自宅から歩いて行ける「ご近所の城」を散策してみた。

【礒野健一】

 自宅がある草津市中心部から県道を南東へ歩く。名神高速道路をまたぐ橋の手前に、水草が一面に茂った池が見えた。青地城の堀だったとされる「城池」。その先に望む小高い丘陵が青地城跡だ。

 青地城は鎌倉時代から長く湖南地域を治めたとされる青地氏の居城だった。廃城となったが、歴史的にも存在感のある城だった。それを今回の散策で出会った人たちから再確認することになる。

 午前11時半、受付テントに到着すると、既に多くの人でにぎわっていた。入場は無料で、記帳すると登城記念の「御城印」がもらえた。地元の書家がしたためた「青地城」の文字に、青地氏の家紋と城の縄張り図が印刷されている。裏には217人目を意味する「00217」の刻印。予想以上の盛況ぶりだ。

 大正時代に建てられた「青地城山碑」を見ながら、その奥にそびえる土塁に向かった。土塁はこの日のために草刈りされ、形状も分かりやすく整備されていた。幅は2メートルほど。木立が夏の日差しを遮り、歩いていても涼しさを感じた。土塁の南にある空堀を見下ろす場所は高さ10メートル以上あり、空堀を歩く来場者が小さく見える。敵が攻めてきても難なく応戦できる構造だ。

 戦国時代の戦場に思いをはせていると知った顔が。草津宿街道交流館前館長の八杉淳さん(65)。青地城を巡る歴史談義に花が咲いた。「信長にとって青地城は戦略上、とても重要な立地だったんです」と八杉さん。「信長が足利義昭を将軍職に就けた際、報償として望んだのが、物流拠点だった堺と大津と草津を直轄領とすることでした。その草津を一望できたのが瀬田丘陵の先端にある青地城でした」。近所の城跡が一気に戦国ロマンに染まった。

 一般公開を企画した「志津の歴史と文化を学ぶ会」の山本浩史会長(64)にも話を聞いた。志津小OBの山本さんは「昔は小学校と城跡がフェンスで区切られることもなく、昼休みに土塁に登ったりして遊び場にしていた」と懐かしむ。青地城跡は1981年に草津市の歴史や文化を後世に伝える「草津八大名所」に指定されたが整備は進んでおらず、2021年に会を設立して勉強会を重ね、今回の公開に至った。山本さんは「今日は大阪や岐阜からも城ファンが訪ねてくれた。来年にはガイドブックを出版し、地元の子供たちにも知ってもらえるよう活動を続けていく」と力を込めた。

 最後に青地氏の子孫の青地正記さん(71)に案内してもらって空堀を見学した。「60年くらい前まで、このあたりに戦の後に刀を洗ったという『血洗池』があったんです」といった地元ならではの詳しいガイドに楽しませてもらった。空堀はその中にいると人工的に削られたことがはっきりと分かり、ここが城跡だと実感できた。青地さんは「青地城は謎も多い城。公開することで新たな情報も集まってくるかもしれない」と期待する。時を超えた散歩で青地城への愛着が一層増した一日だった。