「中城」(前編)気軽に訪れることができる太田道灌来訪の城 山城ガールむつみの埼玉のお城出陣のススメ

AI要約

関東地方で続いた戦国時代の大乱において、埼玉県は重要な戦いの中心地となった。

数多くの城が築かれた本県に残る戦乱の痕跡は、様々な地形に城が築かれたことを物語る。

中城は太田道灌ゆかりの城として知られ、道灌が関東管領山内上杉顕定の謀反計画を明かされた場所としても知られる。

「中城」(前編)気軽に訪れることができる太田道灌来訪の城 山城ガールむつみの埼玉のお城出陣のススメ

享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱と、15世紀中頃以降関東では大乱が続き、本県は相次ぐ戦いの中心地になりました。古河公方の本拠古河と対峙(たいじ)した関東管領上杉方の本拠「五十子陣(本庄市)」、関東管領上杉氏の分家扇谷上杉氏が拠点にした「河越城(川越市)」、クーデターを起こした長尾景春が築城し、その後は関東管領上杉氏の拠点になった「鉢形城(寄居町)」。これらを中心に長きにわたり、戦いが繰り広げられ、本県には数多くの城が築かれました。

急峻(きゅうしゅん)な山に築かれた山城だけではなく、ちょっとした丘や平地にも城は築かれ、間髪を入れず繰り広げられた戦いの痕跡が本県のいたるところに残り、かつての戦乱の激しさを物語ります。私たちの身近にも、気づけばたくさんの城があり、城を通して本県の歴史深さを感じることができます。

中城(小川町)は、東武東上線小川町駅から南西約1キロの住宅街にあり、気軽に訪れることができる城でありながら、戦国時代の様相をふんだんに感じることができる素晴らしい城です。中城は、八幡台と呼ばれる西方から東方の小川盆地に向かって張り出す比高約20メートルの台地の先端に築かれました。現在、北側には沼がありますが、かつてはもっと広範囲にわたり湿地が広がっていたと考えられ、要害性の高さが見て取れます。南側には槻川が流れていて、水上交通の発達した地であったことも分かります。

また、中城は太田道灌ゆかりの城でもあります。道灌が関東管領山内上杉顕定の側近高瀬民部少輔に宛てて書いたとされる書状「太田道灌状」に、なんと中城のことを指していると思われる記述があるのです。「太田道灌状」には当時の戦いの情報、状況、さらには主君に対する不満など、さまざまな貴重な事項が記載されています。その中に、道灌が扇谷上杉氏家臣の上田上野介が在郷していた小河(現小川町)に一泊したと書かれています。この記事は文明6(1474)年のことと考えられていて、この頃、長尾景春が主人山内上杉顕定に対して謀反を企てていました。そのような不穏な状況の中、道灌は顕定らが在陣している五十子陣に向かい、その途中のここ「小河」で一泊したと思われます。そして、明くる日の朝、道灌を訪ねて景春がやって来たのです。

景春は、叔父にあたる道灌を味方に引き入れるため、顕定暗殺計画を打ち明けました。しかし、道灌は景春には味方せず、謀反の企てを顕定に伝えるため、五十子陣に急ぎ出立しました。この後、道灌は顕定と景春の和睦仲介に乗り出すことになりますが、道灌の苦労のかいもなく、ついに景春は顕定に対して反旗を翻し、「長尾景春の乱」が勃発しました。以降、道灌はこの乱の鎮圧に奔走することになるのです。