宗教は、悲しみの涙をぬぐうことで終わってはならない

AI要約

浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏と、批評家・随筆家の若松英輔氏が、「宗教と「笑い」」について書簡を交わす連載の一部。釈氏は笑いと宗教の関係を探求し、若松氏はドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』におけるイエスの姿を引き合いに出す。

若松氏は、ドストエフスキーの物語を通じて、イエスが人々と共に楽しみ笑った姿を紹介。イエスの存在は、「受肉」という問題を通じて、神が人の姿として現れ、人々と一緒に苦楽を分かち合うことを表している。

また、イエスが行った奇蹟のひとつである「カナの婚礼」では、イエスがさまざまな人々と笑いながら食事を楽しんでいたことが示唆されており、食と笑いを通じて和解と許しの象徴として描かれている。

宗教は、悲しみの涙をぬぐうことで終わってはならない

浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について書簡を交わす本連載。釈氏の「宗教と笑い」をテーマにした前回の書簡(第一〇信・A)に対する、若松氏の返信を公開する。(本記事は、「群像」2024年8月号にも掲載されています)

第一〇信・Aはこちら

お手紙ありがとうございました。おっしゃるように「宗教と「笑い」」の問題は重要です。なぜなら、笑いは表面的には喜びを表現していながら、その奥では、簡単には名状できない心情、つまり、宗教こそが直視すべき心のありようと直結するからです。ご提案ありがとうございました。

ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』が引かれているのにも驚きました。最近、小説家としてのエーコではなく、全体主義と闘う者としての彼に注目していて、『薔薇の名前』も再び読まねばならないと思い、書棚の奥から見える場所にもってきたところだったからです。

さて、「宗教と「笑い」」という問題と向き合おうとするとき、見過ごせない、と感じるのはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』です。お書き下さったイエスは笑ったのかという問いに関してもふれられています。この作家は、イエスはもちろん笑った、それだけでなく、人々との時間を大いに楽しみさえしたと考えています。

この小説の主人公アレクセイは、カラマーゾフ家の三男、そして見習い修道士でもあります。彼の夢に出てきた彼の師でもあった長老ゾシマはそうしたイエスの姿をめぐってこう語っています。

愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。(原卓也訳)

「同じ姿にな」ったというのは、神が人の姿をとって世に現れたことが意味されています。この「受肉」という問題は、もしかしたら、日本人がキリスト教を理解するうえで、もっとも困難な点の一つかもしれません。神は、この世界を愛している。それは被造物である人間の姿をもって世に現れたことによっても証されている、とキリスト者たちは考えています。それだけでなく、神は人間と苦楽をともにさえしようとしている、というのです。

「水をぶどう酒に変え」たというのは『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」に記された「カナの婚礼」として知られる物語です。この「徴」─すなわち奇蹟─は、イエスが行ったあまたある奇蹟のなかで最初のものであったとこの福音書は告げています。

最初の奇蹟が食と談笑にまつわるものであることも無視できません。キリスト教における「食」が和解と許しの象徴であることは先にふれたことがあったように記憶しています。イエスは、許しだけでなく、そこに笑いをももたらしたのです。婚礼にはさまざまな人が招かれます。ここでの婚礼は祝祭の異名です。そこに招かれるのは聖なる者ばかりではなかったと思われます。悔い改めを必要とする人たちもいたはずです。そうした人とイエスは笑いながら食事をしたのです。

ゾシマは、先の言葉を主人公アレクセイの眼前で語ったのではありません。夢のなかでこの若者に伝えたのです。作者が、先のことを死者となった彼に語らせていることを加味すると、述べられている意味はいっそう重みを持ってきます。長老は冥界の人となっても、笑う人であるイエスを確信的に語っているのです。