湖畔に佇む特攻の記憶 「語り部」が伝え続ける茨城「鹿島海軍航空隊跡」 戦後79年

AI要約

茨城県南部の霞ケ浦の湖畔に残る、昭和13年に発足した鹿島海軍航空隊(鹿島空)の跡地。戦争中にパイロットを養成し、特攻隊員も輩出した場所である。

特攻隊員だった加藤亀雄さんの経験や、戦争中の過酷な訓練や体験を通して、戦争時代の青春や苦悩が語られる。

施設はかつて放置されることもあったが、現在は土日に一般公開され、戦争の記憶を保存・伝える活動が行われている。

湖畔に佇む特攻の記憶 「語り部」が伝え続ける茨城「鹿島海軍航空隊跡」 戦後79年

夏草が足元に高く伸びていた。水辺を望むように、ツタが絡む朽ちた建物が立ち並んでいる。茨城県南部、霞ケ浦の湖畔。先の大戦中にパイロットを訓練した施設がここに残っている。

昭和13年に発足した鹿島海軍航空隊(鹿島空)の跡地。日本海軍の水上飛行機部隊の養成施設として終戦まで運用されていた。

広い敷地に鉄筋コンクリートの庁舎や自力発電所が佇み、湖岸には水上機が離着陸するカタパルトの台座跡やスロープが当時の面影をとどめている。

大戦の末期、ここで育てられた若者たちが特攻へと飛び立った。

一昨年に95歳で亡くなった加藤亀雄さんもその一人だった。水上偵察機の搭乗員だったが、戦況の悪化に伴い鹿児島の特攻基地へ異動。昭和20年6月、特攻の命を受けて沖縄へ出撃した。しかし、嵐に遭ったため引き返し、そのまま終戦を迎えた。

加藤さんが戦争のことを語り始めたのは晩年になってからだった。

長女の市川小百合さん(69)は「父は、昨日まで隣にいた仲間が翌朝にはいなくなるのが苦しかった、と嘆いていました」と振り返る。

厳しい訓練に、上官からの体罰…。共に学んだ戦友が何人も特攻や戦闘で散っていった。「つらいことばかりだったはずだけど、鹿島空はある意味で青春の地だったように語っていました」

跡地は、長く放置され一時は取り壊す計画もあったが、昨夏から土日限定で一般公開されるようになった。見学の他、映画のロケ地利用なども受け入れながら保存を目指している。

管理する「プロジェクト茨城」の金沢大介代表(53)は「街中に点在する戦跡と比べて、敷地全体で当時の軍の姿を想像できるのが貴重」と話す。

終戦から79年。規模が大きい戦跡が新たに公開されるのは珍しく、全国から見学者が訪れている。

かつて若いパイロットたちが見上げていた空の下で、時が止まったままの「語り部」が戦争を伝え続けている。

(写真報道局 鴨川一也)