幕府はどのようにして攘夷実行に向かっていったのか?幕府を追い込む長州藩と土佐藩、家茂の上洛と大政委任の否定

AI要約

幕府が朝廷から即時攘夷を迫られ、破約攘夷を宣言するまでの経緯。

長州藩と土佐藩が幕府を追い詰め、攘夷の方針を強引に決定させるまでの流れ。

朝廷と幕府、そして諸藩の攘夷に関する対立が激化する時期の背景。

 (町田 明広:歴史学者)

■ 朝廷に追い詰められる幕府

 幕府は、未来攘夷(現行の通商条約を肯定し、富国強兵を果たした上での攘夷実行を志向)を標榜していたが、朝廷から即時攘夷(現行の通商条約を否定し、条約破棄のための目の前の攘夷実行に固執)を迫られ、できもしない破約攘夷を宣言するに至る。まずは、幕府が攘夷を実行せざるを得なくなった、具体的な経緯から話を始めたい。

 日本と欧米列強5ヶ国との間に通商条約が結ばれたのは、安政5年(1858)である。それ以降、朝廷は即時攘夷(条約破棄)、幕府は未来攘夷(条約容認)と、国是(対外方針)はまさに2つに分断され、幕末の動乱が始まったのだ。

 桜田門外の変によって、稀有な独裁者であった大老井伊直弼を失い、武力を盾にした強引な政治運営が無理であることを悟った幕府は、朝廷との融和路線を模索した。いわゆる、「公武合体」と言われるものである。幕府の武威は、もう光を失いかけていたことは誰の目にも明らかであった。

 その最大の成果は、万延元年(1860)に実現した、井伊大老時代から画策された和宮降嫁の勅許であろう。孝明天皇の妹を14代将軍徳川家茂の正室に迎えることによって、幕府は朝廷の権威を借りて延命を図ろうとした。しかし、その代償は意に反して甚大なもので、岩倉具視の画策により、幕府は10年以内に通商条約を破棄し、攘夷を実行することを天皇に約束してしまったのだ。

■ 幕府を追い込む長州藩・土佐藩

 ここで、長州藩に目を向けてみよう。文久元年(1861)、直目付の長井雅楽が建白して藩論となったのが、航海遠略策である。これをひっさげて、長州藩は中央政局に登場し、国事周旋へ乗りだしたのだ。

 これは、通商条約を容認して勅許の獲得を目指すものであった。そのため、東アジア的華夷思想にもとづく朝貢貿易をあたかも実現できると謳っていた。つまり、孝明天皇を欺くトリックが潜んでいたのだ。

 しかし、同じ藩内から反対意見が噴き出し、その急先鋒であった久坂玄瑞による廷臣への入説の結果、孝明天皇自身もこのトリックに気が付き、勅許を得ることは叶わなかった。その結果、長州藩は一気に即時攘夷に突き進むことになる。

 文久2年(1862)になると、航海遠略策を捨てて藩是を即今破約攘夷に転換した長州藩と、武市瑞山に率いられた土佐勤王党に牛耳られた土佐藩によって、中央政局はまさに攘夷一色に席巻されていた。朝廷においても、姉小路公知をはじめとする下級廷臣が、改革派廷臣を形成して、朝廷の方針を決定する朝議を支配し、とうとう幕府に攘夷実行を迫ることになったのだ。

 朝廷は攘夷実行を迫るために、三条実美と姉小路公知を江戸に派遣し、12月5日には、とうとう将軍家茂に国是を攘夷と決めさせた。その上、至急の上洛を求め、その際には攘夷実行の方策を奏聞(天皇に申し出ること)することを約束させた。もう、幕府も後には引けない状況に追い込まれた。