誰もが知る独裁者「アドルフ・ヒトラー」…「人類史上最悪のジェノサイド」を起こした男の若かりし日々

AI要約

ヒトラーは若き頃から政治に関わり、短期間でナチ党の指導者にまで上り詰めた。彼が大衆の支持を得て独裁者となった経緯やヴァイマル共和国時代の背景を探る。

ヒトラーは出自や学歴に恵まれない普通の人物だったが、カリスマ的リーダーシップと政治的手腕で急速に台頭。ヴァイマル共和国の混乱と大衆の不満に乗じて支持を集めた。

ヒトラーの若き日の経歴や家族背景から、彼が如何にして政治家としてのキャリアを築いていったのか、その過程を紐解く。

誰もが知る独裁者「アドルフ・ヒトラー」…「人類史上最悪のジェノサイド」を起こした男の若かりし日々

ヒトラーは、どのようにして大衆の支持を得て独裁者となったのか。安楽死殺害やホロコーストはいかにして行われたのか。ナチ体制は、単なる暴力的な専制統治ではなく、多くの国民を受益者・担い手とする「合意独裁」をめざした。最新研究をふまえて、未曾有の悪夢の時代を描く。

*本記事は、石田 勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

一九三三年一月三〇日、ナチ党=国民社会主義ドイツ労働者党の党首、アドルフ・ヒトラー(一八八九~一九四五年、以下、年略)は、ヴァイマル共和国の当時の大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク(一八四七~一九三四)によって首相に任命された。このとき、ヒトラーは四三歳。

初めて政治の世界に足を踏み入れたのが三〇歳を過ぎた頃だから、それからわずか一三年余りでドイツの政治家としてのキャリアを上り詰めたことになる。

三〇歳までのヒトラーの半生に、その後の劇的な展開を予想させるような出来事は何ひとつなかった。多少自意識は人より強かったが、若い頃のヒトラーに人と違う目立った特徴はなかった。

なぜそんな平凡な人物が、短期間のうちに多くの国民の期待を集め、カリスマとして、あるいは救世主としてみなされるようになったのか。

本章では若きヒトラーに注目しよう。ヒトラーはいったい何をきっかけに政治に関わるようになり、どのようにしてナチ党の指導者となったのだろうか。

「ボヘミアの上等兵」は、ヒトラーがドイツの指導者にふさわしい人物か疑問に思う人びとの間で用いられたヒトラーの異名だ。ヒンデンブルクもそのひとりだった。ドイツ帝国陸軍元帥のヒンデンブルクにとって、第一次世界大戦の従軍体験を誇示していたヒトラーもただの一兵卒だ。一級鉄十字勲章を授けられたとはいえ、下士官にもなれなかった男の勇敢さなどたかが知れている。大統領はヒトラーをそう見下していたのだ。

ドイツ帝国が第一次世界大戦に敗れ、帝政が崩壊した後、ドイツには共和制国家が誕生した。新しい国家は、初回の国会(憲法制定国民議会)が敗戦と革命で混乱する首都ベルリンを避け、ヴァイマルの地で招集されたことから、ヴァイマル共和国(一九一九~一九三三)と呼ばれるようになった。旧王侯・貴族の政治的影響力は衰え、代わって実業界の大物、市民層出身のインテリ、労働者運動の指導者が多く政界入りするようになっていた。

そんななかでナチ党の党首、ヒトラーは異色の存在だった。

たしかにヒトラーは中間層下位、つまり庶民の出で、大衆民主主義の時代にふさわしい人物だったともいえるが、学問を修めたわけでも、職業や資格を身につけていたわけでも、特定の業界や利益団体を代表する立場にあったわけでもなかった。それどころか、ヒンデンブルクと選挙で大統領のポストを争う一九三二年まで、ドイツの国籍さえもっていなかった。

ヒトラーは、一八八九年四月二〇日、現在のオーストリア(当時はハプスブルク帝国)のブラウナウに生まれた。ブラウナウはドナウ川の支流、イン河畔にあって、ドイツに接する美しい国境の町だ。

父のアロイス・ヒトラー(一八三七~一九〇三)は小学校しか出ていなかったが、片田舎から帝都ウィーンに出て職人修業を終えた後、一八歳で帝国大蔵省守衛となり、やがて税関職員となった。仕事柄、パッサウ、ブラウナウ、リンツなどと住所を転々としたが、官吏としては堅実な、地元の人から一目おかれる人間だった。だが家庭では厳しく、ときに家族に暴力を振るうこともあった。

母のクララ(旧姓ペルツル)はアロイスの三番目の妻で、二三歳も年下だ。アドルフは生涯ひた隠しにしたが、アロイスは非嫡出子であり、養子縁組をしてアロイス・ヒトラーと称するまで母方の姓、シックルグルーバーを名乗っていた。シックルグルーバー家の出身地は、ボヘミア地方との境に近いオーストリア北西部だ。ヒトラーが「ボヘミアの上等兵」と呼ばれたのはその辺りの事情が関係しているのだろう。