中国文学研究の大家・目加田誠さんが残した文学の土壌 「平成」などとともに最終候補だった元号案「修文」に込めていた思い

AI要約

元号案「修文」を提出し、中国文学研究者目加田誠さんの生涯と思いを探る。

目加田の苦労や研究への情熱、息子や娘の証言から人間像を窺う。

改元前、目加田の遺品から見つかった「修文」案メモと、彼の思いが再び注目を集める。

中国文学研究の大家・目加田誠さんが残した文学の土壌 「平成」などとともに最終候補だった元号案「修文」に込めていた思い

 元号案「修文」を提出し、碩学として知られる中国文学研究者の目加田誠さん。今年は生誕120年、没後30年を迎えた。その足跡から「修文」に込めた願いを探る。

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 63年続いた昭和の世が終わりに近づく頃、1人の老学者が病身を押して、福岡県大野城市の自宅書斎で机に向かっていた。彼の名は目加田誠(めかだまこと)(1904~94)。日本を代表する中国文学研究の大家として、昭和に続く新元号の考案を政府から依頼されていた。提出した「修文」は「平成」などとともに最終候補に残った。目加田が込めたのは、武ではなく「文」により「修」めるとの願い。時代は平成を終え、令和に移ったが、その思いは今なお人の心に訴えかけるものがある。

 明治、大正、昭和に渡る90年の生涯は、少年期から苦労続きだった。

 目加田は陸軍軍人目加田生五郎の長男として福岡県久留米市で生まれ、山口県岩国市などで育った。小学生から中学生にかけ、父が44歳で、母が36歳で死去。2人とも結核だった。10代で家長となった目加田は、妹1人、弟3人を親類に預けるために奔走しなければならなかった。

 そんな中でも学問に取り組み、旧制水戸高を経て東京帝大文学部支那文学科に入学。卒業すると京都の旧制第三高校講師などを経て、33年、九州帝大助教授に就任。同年、中国の北平(現在の北京)への留学を果たす。

 留学末期の35年3月、南方へ旅行。上海では文豪の魯迅(1881~1936)と会っている。反体制派の文化人と目されていた魯迅の印象を、目加田は晩年の随筆に<抜き身の槍(やり)でもひっさげているようなきびしいものを、その人から感じた>と書き残した。魯迅は<(日本と中国は)両国だけが理解しあえるはずの文化を持っているのに、なぜそれを理解しようとしないのか>と嘆いたという。翌36年、魯迅死去。37年、盧溝橋事件で日中戦争に突入。両国の関係が泥沼化する中での留学だった。

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 九州大教授、早稲田大教授を歴任した目加田は、中国最古の詩集「詩経」の口語訳で知られる。戦後は家にまつわる苦労も減り、その分、研究と後進の育成に情熱を注いだ。「夏に書斎で仕事をしていると汗だくになり、何度も浴衣を代えていた。髪の毛が逆立っていることもあり、驚いた」と、三女の東谷明子(75)=京都市=が述懐する。

 次男の目加田懋(つとむ)(80)=札幌市=は「人にはいろいろな面がある。良い面を探せば人間関係はうまくいく、と教えられた」と振り返る。社会人になって役に立ったという教えも、前半生の苦労ゆえなのかもしれない。家では常に正座。酒を飲んでも崩すことはなかった。西日本新聞が贈る西日本文化賞は1967年に受賞した。

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 平成からの改元を控えた2019年2月、目加田の存在がにわかに脚光を浴びた。「修文」を始め20余りの元号案が記された直筆のメモが、大野城市が整理中だった遺品の中から見つかり、同3月、同市の博物館「大野城心のふるさと館」で公開されたのだ。

 大野城は晩年を含め長く暮らした地。同館は、妻で国文学者の目加田さくを(1917~2010)の分も合わせて約6千点の目加田家旧蔵書を収蔵し一般に公開している。さくをの死後に寄贈されたものだ。

 7月8日午後、同館の講義室に市民15人が集まった。「目加田誠博士中国旅行ノートを読む」と題した講座の2回目。九州大大学院専門研究員の稲森雅子(61)が講師で、目加田が1936年に中国を旅行した際のノートを判読した。李白の漢詩も受講者全員で音読し、味わった。同市瓦田にあった目加田家旧宅は今はない。住む人がいなくなり、維持管理の難しさから今年に入って解体された。中国の文学に親しむ土壌が、この街に残された。(敬称略)

(諏訪部真)