【京都・神護寺創建1200年】空海が真言密教の最初の本拠地に選んだ理由とは

AI要約

神護寺は、空海が密教の本拠地とした京都の寺院で、神願寺と高雄山寺の合併によって誕生した。

天台宗の最澄と真言宗の空海が関わり、密教行事や灌頂を行った高雄山寺は、日本における真言密教の重要な拠点だった。

神護寺は1200年の歴史を持ち、東京国立博物館で開催されている創建1200年記念特別展では、多くの貴重な文化財が展示されている。

 弘法大師・空海が唐からの帰国後に真言密教の最初の本拠地にした京都・神護寺(じんごじ)。同寺には数々の寺宝があることで知られる。その貴重な文化財を紹介する創建1200年記念特別展「神護寺」が東京国立博物館で開かれている(会期は2024年9月8日まで)。この記事では、神護寺と空海との深い関わりについて触れる。

*この記事は、『空海に秘められた古寺の謎』(山折哲雄編、古川順弘執筆、ウェッジ刊)から一部を抜粋したものです。

 神護寺は京都市街地の北西方向にそびえる愛宕山(標高924メートル)の中腹、高雄(高尾)に所在する。高野山真言宗の別格本山で、山号を高雄山という。

 神護寺のルーツには2つの寺院がある。ひとつは河内国(大阪府南東部)にあった神願寺で、和気清麻呂(733~799)によって国家安泰を祈願するために創建された。

 和気氏は備前国(岡山県東部)出身の豪族で、清麻呂は平安遷都の提唱者であり、神護景雲3年(769)に道鏡が皇位につくことを目論んだ際に宇佐八幡神の神託を受けてそれを阻止したことでも知られる。神願寺の創建は、宇佐八幡神の神願をはたすためであったともいわれる。創建の年代ははっきりしないが、奈良時代後半のことと考えられる。正確な寺地は不明である。

 同じ頃、清麻呂が中心になって、高雄に和気氏の氏寺として高雄山寺(高雄寺)が建立された。こちらも創建年次がはっきりしないが、一説に天応元年(781)の創建だという。この頃愛宕山には5つの山寺が整備されたと伝えられているが、高雄山寺はその愛宕五坊のひとつであった。

 そして清麻呂没後の天長元年(824)、清麻呂の子の真綱・仲世によって神願寺が高雄に移されて高雄山寺と合併され、寺号は神護国祚真言寺(じんごこくさしんごんじ)と改められた(「国祚」とは国家の幸福の意)。この略称が神護寺である。

 高雄山寺時代の歴史をみると、平安遷都後しばらくは天台宗開祖の最澄がこの寺と深く関わっている。

 延暦21年(802)、和気弘世・真綱兄弟は、比叡山寺(延暦寺の前身)の最澄と南都奈良の高僧十余人を高雄山寺に招き、天台教義を講じる法会を催した。長期にわたって行われたこの講会の評判は桓武天皇の耳にも届き、講説者として中心的な役割をはたした最澄は、日本における天台仏教の第一人者としてその名が知られるようになり、これが2年後の入唐留学につながっている。

 延暦24年9月、唐から帰朝した最澄は、桓武天皇の勅を受けて高雄山寺で密教の灌頂(かんじょう)を執り行った。これを機に、高雄山寺は密教寺院としての性格を強めてゆく。

 そして大同4年(809)7月頃、最澄より遅れて帰朝したのち数年九州に滞在していた空海が、高雄山寺に入山した。これ以後10年あまり、空海はここを拠点に密教宣布と真言宗立宗に取り組んだ。

 弘仁3年(812)、空海は高雄山寺にて、最澄や真綱ら多くの僧俗に金剛界・胎蔵両部の灌頂を授けた。これは空海にとっては、日本における公開的な密教行事の最初となった。このときの記録である空海自筆の『灌頂歴名』は神護寺に今も伝えられている。すでに高雄山寺の空海のもとには多くの弟子が集っていたらしく、この頃寺に三綱(さんごう/三種の役僧)が置かれ、寺院としての機構が整えられている。

 弘仁7年には南都の有力僧勤操が名僧を率いて高雄山寺に上り、空海から三昧耶戒(さんまやかい)と両部灌頂を受けた。高野山と東寺が密教道場として確立されるまでは、ここ高雄山寺こそが空海密教の本山だったのだ。

 そして前述したように天長元年(824)に神護国祚真言寺(神護寺)と改められ、同時に定額寺(じょうがくじ/官寺に準じた待遇を受け、鎮護国家を祈る寺)となった。そしてあらためて空海に付嘱され、明確に真言密教専修の寺院となり、護摩堂・灌頂堂などが建てられていった。