「空堀の聖地」小机城、交通の便もよく駅近、オールシーズン楽しめる土の城が抱える問題点とは

AI要約

小机城は土の城入門に最適な城であり、空堀の聖地として知られている。

城へのアクセスは便利であり、歴史的な重要性を持つが、一部の人が誤った事実を広めている。

小机城は武蔵の戦国期城郭として北条氏の支城として活躍したが、道灌が攻めた城として紹介されることがある。

 (歴史ライター:西股 総生)

■ 土の城入門に最適な城だが……

 横浜市港北区にある小机城は、空堀の聖地である。

 筆者はこれまで何度も、地方から上京した研究者仲間や、城好きの知人をご案内しているが、ほとんどの人がこの城の空堀に目を見はる。「なに、これ……」「こんなの、関西じゃ見たことない……」といった感じで、語尾が「!」ではなく「……」な反応になるのだ。

 いや、空堀の巨大さだけからいったら、全国にはもっと凄い城があるだろう。けれども小机城の魅力は、単に空堀が巨大なだけでない。首都圏にあって交通至便なうえに、よく整備がされていて歩きやすく、オールシーズン楽しめる土の城なのである。

 なにせ、新横浜駅からJR横浜線でひと駅の小机駅を下りたら、徒歩10分かそこらという駅近優良物件なのだ。駅のすぐ西に見える丘が城跡だし、駅から城までの案内表示もしっかりしているので、迷う心配もない。服装も普段着とスニーカーで充分だ。

 注意事項といったら、夏場はヤブ蚊が煩わしいので虫除けを忘れないこと。日産スタジアムが近いので、サッカーの試合のある日は駅周辺が混雑すること。駐車場がないので必ず公共交通機関を利用するとこ、くらいだろうか(城周辺は道が狭く路駐は絶対不可)。

 土の城入門にこれほど好適な城が、空堀の聖地なのであるが、そんな小机城にもちょっとした「問題」がある。城の歴史だ。

 この城が歴史に登場するのは、1478年(文明10)のこと。当時、関東地方は長尾景春という武将の起こした叛乱によって、混乱状態にあった。この乱の鎮定に大活躍したのが太田道灌であったが、江戸城を拠点に活動する道灌を牽制するため、長尾景春は叛乱軍の一部を小机城で蜂起させた。対する道灌は、小机城と鶴見川を挟んで相対する亀甲山というところに陣を置いて、これを攻略した。

 それからしばらくの間、小机城は史料に見えない。城といっても叛乱軍のアジトのようなものだから、おそらく造りも簡素で、乱の後は放ったらかしになっていたのだろう。廃墟の小机城を取り立てたのは、小田原から抬頭した北条氏だった。

 北条氏が武蔵に本格的に進出する1520年代から、小机城は北条氏の有力な支城として史料に登場するようになる。北条氏一族の為昌・氏堯・氏光などが城主として送り込まれ、重臣の笠原氏が城代となって、1590年(天正18)の豊臣秀吉侵攻まで存続した。

 とまあ、こんな具合に、関東地方の戦国期城郭としては沿革もわかっている方だ。一見、何の「問題」なんかなさそうなのだが、困ったことに小机城を「道灌が攻めた城」として理解してしまう人、アピールしたい人が多いのだ。

 そりゃあ、道灌が攻めたのは歴史的事実だし、北条氏堯やら氏光やらに比べたら、圧倒的に道灌の方がネームバリューはある。でも、ですよ。何十年も放置されていた叛乱軍のアジトを前進基地や戦略拠点として再利用した北条氏が、何の手も加えなかったというのは、常識的に考えてありえない。

 しかも、北条氏は小机城を70年間くらい、ずっと使っているのだから、その間に何度かリニューアルされたはずである。実際、1570年(元亀元)には武蔵の主要な城を改修する命令が出されているし、豊臣軍の侵攻を控えた時期にも関東一円の城が大々的に強化されている。小机城も当然、強化改修されたはずなのだ。

 だいたい、道灌時代と北条氏時代では、城としての役割も違ってきているし、戦争のやり方(武器や戦術)だって変わってくるのだから、同じ城をそのまま使い続けられるわけがない。だとしたら、今われわれが見ている小机城は、道灌の攻めた小机城とは場所は同じでも、実態としてはほとんど別物、と考えなくてはならない。

 にもかかわらず、小机城の空堀を前にして、太田道灌がこの城を攻めたような説明をする人が絶えないのは、本当に困ったものだ。歴史や考古学の勉強をする以前に、まずは常識的・合理的思考を身につけたいものである。

 [参考図書] 身近な城跡を歩きながら、土の城の見方が身につく拙著『首都圏発 戦国の城の歩き方』(KKベストセラーズ)、巻頭カラーはマンガで小机城を紹介しています。ご興味のある方はぜひご一読を。