合戦地「高見原」に築かれた城 「四ツ山城」(後編) 山城ガールむつみ 埼玉のお城出陣のススメ

AI要約

文明18年に起きた糟屋館の事件をきっかけに長享の乱が勃発し、比企地方で激しい戦いが繰り広げられた。

四ツ山城は重要な戦略拠点として活躍し、各時代において様々な戦いの舞台となった。

四ツ山城周辺には奈良梨という歴史ある宿や、要衝地としての重要性を示す遺構が多く残っている。

合戦地「高見原」に築かれた城 「四ツ山城」(後編) 山城ガールむつみ 埼玉のお城出陣のススメ

文明18(1486)年7月26日、糟屋館(神奈川県伊勢原市)で、扇谷上杉氏の家宰太田道灌が主君扇谷上杉定正に謀殺されるという大事件が起きました。これをきっかけに、扇谷上杉氏と山内上杉氏の全面抗争「長享の乱」が幕を開け、本県でもあちこちで戦いが起きました。

長享2(1488)年には、鎌倉街道上道の要所である須賀谷原と高見原で大規模な合戦が繰り広げられました。この2つの戦いでは、扇谷上杉方が勝利し、山内上杉方は鉢形城に撤退、以降、扇谷上杉氏の拠点河越城と山内上杉氏の拠点鉢形城の間にあたる比企地方は、激戦地となりました。比企地方に築かれた城の多さと、各城に残る戦国時代の遺構が、この地域の激動の歴史を物語っています。

たびたび両上杉軍が激突した高見原を望む絶好の位置に築かれた四ツ山城(別名高見城)は、詳細は不明なものの、長享の乱においては扇谷上杉氏が鉢形城攻めの陣所にしたとも考えられています。

ちなみに文明12(1480)年に、太田道灌が鉢形城に籠もった景春を攻めるため、四ツ山城に布陣したとも伝わります。また、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、豊臣方の大軍が四ツ山城に攻め寄せたといい、鉢形城の守りとして四ツ山城にいた城兵は戦わずに鉢形城へ逃げたと伝わります。このように、四ツ山城はたびたび戦いの舞台になる地域の重要な城なのです。

四ツ山城は周囲からひときわ高くそそり立ち、遠くからでもとても目立ちます。山頂からは直下を通る鎌倉街道上道はもちろんのこと、周辺の城が一望できるパノラマが眼下に広がります。この素晴らしい景色から、四ツ山城の存在意義を感じることができます。

また、四ツ山城の東南約2キロの鎌倉街道上道沿いに「奈良梨」という宿があります。この宿は、鎌倉時代末期にはすでに形成されていたことが分かっていて、戦国時代には宿駅として繁栄していました。現在の八和田神社を中心に、宿を管理する何らかの施設があったと考えられていて、「奈良梨陣屋」として小川町の指定史跡になっています。さらに、高見と菅谷に伝馬が継立されていたことが天正10年(1582年)の『北条氏伝馬掟』から分かっています。このように四ツ山城周辺は、いつの時代も要衝地であり、四ツ山城は重要な役目を担っていたと考えられます。

四ツ山城は、おもに本郭、二の郭、三の郭で構成されていて、各郭の行き来を遮断するために、尾根を掘り切る「堀切」が施され、さらに斜面に対して縦に掘られた「竪堀(たてぼり)」も多用されています。本郭で発掘調査が行われたものの、残念ながら城の年代を特定できる遺物は発見されませんでした。しかし、今に残る当時の城の姿が、関東の動乱期において、重要な役目を担った四ツ山城の当時の姿を想像させてくれます。