家族とは「さまざまな価値観の交差点」 「七人の墓友」で終活を考える

AI要約

演劇「七人の墓友」について考察。家族と家の違いについて深く掘り下げる作品。

家族の在り方の変化や伝統的家制度についての考えを通して、家族のあり方を模索する姿が描かれる。

記事を通じて家族や家について考え、お盆の時に家族みんなで話し合うことの大切さを感じる。

家族とは「さまざまな価値観の交差点」 「七人の墓友」で終活を考える

 TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽や映画、演劇とともに社会を語る連載「RADIO PAPA」。今回は演劇「七人の墓友」について。

*  *  *

 来月はお盆。帰省して実家に帰って、親と食事して、地元に残る友達に会って、お墓まいり、ということなのだろうが、先祖の墓がなくなったとしたら……。

 墓じまいという話もちらほら聞くし、樹木葬ならそもそも墓石はなく、果たしてどうすればいいのだろう。

 花を手向けて線香をあげ、墓石に水をかけ、住職に挨拶し……。それを半ば無意識にやってきたけれど。

 そんな中、鈴木聡脚本・演出の「七人の墓友」を観た(ラッパ屋第49回公演 紀伊國屋ホール)。

 10年前に脚本を書き下ろしたという鈴木はこう言う。

「『お墓』のことは『家』と密接な関係があります。僕ら一人一人の人生は個人のものである、家に所属しているわけではない、という意識が『〇〇家』と刻まれた墓石より、大きな自然を象徴する『樹木』の下に眠る(あるいは眠っていただく)選択を促しているように思うのです」(「七人の墓友」パンフレットより)

「それは『家族の在り方の変化』にも関係してきます。同じ時代の同じ家に暮らしていても、今や家族の価値観はバラバラです」(同)

 うーむ。

 鈴木は家族の姿に「さまざまな価値観の交差点」を見たという。

 そうか、そうかもしれないなぁと思い、少し寂しいと感じながら観始めた僕はしまいにゲラゲラ笑い、少し泣いた。そこにあったのは紛れもない家族の風景だった。

 意を決して日頃のもやもやを開陳し、それぞれの事情を話し合い、喧嘩し、「ありがとう」と感謝しあい、新しい家族のあり方を模索する芝居だった。

 そこで気づいたのは「家族」と「家」は違うということ。

 僕はラジオ局に勤めているが、「相談があるんだけど」とスタッフの一人が飲み会の席で呟いた。彼女はシングルマザーで、来年就職を控えた大学生の娘と暮らしている。

「娘もいずれ旅立つ。私は一人になる。今さら実家に戻ることもないだろうし。番組スタッフみんなで一緒に『家族』になれないかなって。ほら、遠くの親戚より近くの他人って言うでしょ」

 同性婚法制化や選択的夫婦別姓制度の導入に異を唱える自民党の根幹にあるのは「伝統的家制度の保守」なのだろうが、この「伝統的家制度」って言葉に柔らかいイメージはない。何やらいかめしく、マッチョである。父権に象徴される昭和的上下関係、ジェンダーの壁。そんな言葉を連想してしまう。

「家」ってなんだろう。「家族」って何だろう。家とは物理的な器だが、家族は器ではなく、つながりを示すものではない。今度のお盆では「家族」について家族みんなで車座で話すのもいいかも。ちょっと照れるけど、老いも若きもいろんな意見が出て、旨い酒が飲めたらしめたものだ。

(文・延江 浩)

※AERAオンライン限定記事