「永田町を自分の庭だと思っていた」「毎晩、銀座や六本木で」…!元官房長官の息子が悔恨告白「ボンボン二世議員」の「増長と勘違い」

AI要約
河村建一氏の二世議員としての勘違いと成長過程父親の影響や周囲の期待による勘違いと自己意識の形成他の世襲議員との交流や二世議員のイメージについて
「永田町を自分の庭だと思っていた」「毎晩、銀座や六本木で」…!元官房長官の息子が悔恨告白「ボンボン二世議員」の「増長と勘違い」

総裁選後に行われるとされる衆院選にも、世襲議員は大量に立候補するだろう。彼らはどんな育てられ方をし、親の後を継ぐことに何を思うのか。二世議員の「人格形成」を知る、貴重インタビュー。

前編記事『「進次郎さんだけは別格だった」…元官房長官の息子が赤裸々告白「ボンボン二世議員の勘違い」が生まれるまで』より続く。

現在、日本維新の会所属として初当選を目指す河村建一氏(48歳)が中学生のときに、父・建夫氏は衆院選に初当選。建一氏の「勘違い」はさらに加速した。

「中学は地元の公立だったのですが、周囲からは常に『代議士の息子』として見られていた。良いことをしたときは『さすが河村さんの息子』、悪いことをしたときは『やっぱり河村さんの息子』と言われて(笑)。誰も私個人のことは見てくれなかった。唯一親身になってくれたのは、日教組の先生だけでしたね。『お前、大変だな』と。

やがて私は周囲からチヤホヤされることで、自分まで偉くなったように勘違いするようになりました。成績はよくなかったのに生徒会長をやったり、常に『代議士の息子』としてのふるまいを意識していました」

萩市内の県立高校を卒業後、父と同じ慶應大学を目指すが、2浪して青山学院大学へ。浪人生から大学時代にかけて、いよいよ「増長」は止まらなくなった。

「浪人時代に初めて東京に住んだのですが、小遣いがなくなれば、議員会館に行き、小遣いをせびる。そして大学生になると、名刺を作り、スーツを着て父の手伝いとして議員会館に本格的に出入りするようになった。代議士の電話1本で世の中が動いていく。そんな世界を20歳そこそこで目にした私は、自分は特別なのだと、永田町を自分の庭だと思っていました」

大学卒業後、父の政策秘書になり、’08年に麻生内閣が発足すると、官房長官秘書官に就いた。

「のちの安倍内閣で補佐官を務めた経産省の今井尚哉さんなど、スーパー官僚と机を並べました。オリンピック選手のなかに市民ランナーが放り込まれたようなもので、最初はけちょんけちょんにされました(笑)。

でも、首相だった麻生さんは人情味のある人でしたね。『半径5mの男』と言われ、会うとみんなファンになる。首相時代の麻生さんが『医者は社会的常識が欠落している』と失言をしてしまったことがあるんですが、父が『なぜあんなことを』と聞くと、『だって俺は病院持ってんだよ。だからよくわかってるんだ』と答えていました(笑)」

秘書官時代には、塩崎恭久元官房長官の息子の塩崎彰久衆議院議員や中曽根弘文元外務大臣の息子の中曽根康隆衆議院議員など、他の世襲議員との交流もあったという。

「選挙区が違うのでライバル意識はありません。むしろお互いにシンパシーみたいなものがあり、『いつ後を継ぐんだろうね』みたいな話をしていました。私の父は『世襲はしない』と常々言っていましたが、なかには息子を溺愛している大物議員もいて、引退する前からいろいろ根回しをしていたという話もあります。

名前は出せませんが、親の威を借りて派手に遊ぶ二世もいました。そういう『悪い二世』の集まりもあって、毎晩のように銀座や六本木に繰り出していた。私も誘われましたが、周囲に『絶対にそういう集まりには行くな』と守ってくれる人たちがいたため、幸いにもそういった世界には染まらずに済みました」