「お願いだから道長もうやめて」と言いたくなる…中宮彰子の懐妊→出産で父の藤原道長が起こしたドタバタ劇

AI要約

1008年、中宮彰子が一条天皇の第二皇子を出産。彼女が皇子を無事に出産するまでの様子や道長の焦り、プレッシャー、そして安産を祈るための大法要など、一大国家行事としての出来事が描かれた。

藤原道長の焦りやプレッシャー、彰子の懐妊を願い大騒ぎをしている様子、彰子の成長、皇子の誕生などが詳細に描かれた。

王朝貴族の信じる怪異や呪詛、物の怪との戦い、彰子の安産を祈るために行われた大法要の様子が細かく描写されている。

1008年、中宮彰子は一条天皇の第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産する。歴史評論家の香原斗志さんは「無事に皇子が産まれるまでは、まさに一大国家行事の感があった。あまりの大騒ぎに、妊婦が危険にさらされるほどだった」という――。

■とうとう藤原道長の本音が出た

 最高権力者たる道長の焦り。それがNHK大河ドラマ「光る君へ」の第34回「目覚め」(9月8日放送)では、色濃く描かれた。まず藤原道長(柄本佑)が、藤壺(中宮彰子の後宮)の女房であるまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)のもとを訪れ、あれこれ尋ねた。

 道長が「帝と中宮様はいかにおわす?」と聞くと、まひろは「御渡りはございます」。多少のやりとりの後、道長は「いまだ中宮様にお手は触れられぬか」とぶつけた。「はあ」と肯定するしかないまひろだが、道長は「おまえ、なんとかならぬか? このままでは不憫すぎる」と問いかけた。まひろは「中宮様の御心が帝にお開きにならないと、前には進まぬと存じます」といい、「どうかお焦りになりませぬように」と伝えるが、道長は「焦らずにはおれぬ」と本音を吐露した。

 「このままでは(註・彰子が)不憫すぎる」というセリフは、きれいごとにすぎるが、この時期、もう数え19歳になる中宮彰子(見上愛)が、いまなお一条天皇(塩野瑛久)の子を懐妊しないことへの道長の焦りは表現されていた。

 その後、寛弘4年(1007)3月3日、道長の邸である土御門殿で、和歌や漢詩を競い合う曲水の宴が盛大に催された様子が描かれ、「水の神によって穢れを祓おうとするものであり、道長は中宮彰子の懐妊を切に願って、この宴を催した」というナレーションが入った。

■一条天皇にかけたプレッシャー

 その後、一条天皇に心を開けなかった中宮彰子に、まひろが「帝のお顔をしっかりご覧になって、お話し申し上げなされたらよろしいと存じます」とアドバイスするなどし、彰子の心も少しずつ開かれた様子だった。

 そして、道長は「このごろ不吉なことが続き、中宮様のご懐妊もないゆえ、吉野の金峯山に参ろうと思う」と、大きな決意を口にし、実行した。奈良県吉野町にある標高1719メートルの霊山に、75日から100日にわたる精進潔斎(ある場所にこもり、酒も肉や魚も色も断って精進と祈りを続けること)ののちに参詣したのである。

 途中、鎖を伝わって岩を登らなければならないほどの難所を、大勢の僧侶や人足を引き連れて登った。それを決行しなければならないほど道長は焦っていたわけだが、その甲斐があって、この年の末、彰子はついに懐妊。翌寛弘5年(1008)9月11日、願ったとおりに皇子(敦成親王)を出産した。

 入内したときは12歳だった彰子が、肉体のほかに精神的にも成長したことがあるだろう。加えて、最高権力者の道長が、彰子の懐妊を願って大騒ぎをしているのを知った一条天皇に、放っておくわけにはいかないというプレッシャーがかかったことも大きいだろう。

 だが、いずれにせよ、彰子が無事出産するまでは、まさに一大国家行事の感があった。

■安産を祈って30日間の大法要

 王朝貴族のあいだでは、平安を乱すもののひとつが怪奇や怪異であり、ひとつが呪詛や物の怪だった。日常生活のなかで、たとえば鳥が屋内に入り込んだというだけでも怪異ととらえ、なにかの予兆とみなした。だから、それがなにを予告しているかを知るために、陰陽師の卜占(ぼくせん)が必要だったのである。

 また、「光る君へ」では、道長の長兄、道隆(井浦新)の嫡男である伊周(三浦翔平)が道長を呪詛する場面がたびたび流されたが、この呪詛が効力をもつと信じられていた。だから、排除したい人物を呪詛する人が現れ、呪詛されうる人物は標的にされないように用心した。寛弘4年(1007)末に懐妊がわかった彰子だったが、3月になっても情報は秘せられていた。ひとえに呪詛されることを恐れてのことだった。

 また、病などは物の怪、すなわち恨みを残してこの世を去った人物の怨霊の仕業だと信じられた。したがって、物の怪を鎮めることも大切だった。彰子が安産するためにも、怪異や呪詛や物の怪と戦わなければならず、だから出産は必然的に、想像を絶する規模の一大イベントになったのである。

 彰子が4月13日、内裏から道長の邸である土御門殿に退出すると、23日には安産を祈願するための法華三十講がはじまった。そこから5月22日までの30日間、朝夕2回の法要が営まれた。その間、5月5日に行われ、女人成仏の功徳が説かれるなどした「五巻日」は特に重要視され、道長の日記『御堂関白記』によれば、多くの公卿が出席したという。また僧侶の数は143人におよんだという。