『光る君へ』藤原氏と縁深い興福寺の僧らが朝廷を脅してきたワケ、『御堂関白記』で道長が自負した“紛争処理能力”

AI要約

『光る君へ』は、NHK大河ドラマで紫式部を主人公にした作品で、平安中期の貴族社会を舞台にしている。第34回「目覚め」では、藤原道長が興福寺の僧らから要求を突きつけられる異常事態に直面する。

興福寺は藤原氏と関連が深く、南都七大寺の一つとして知られている。興福寺の起源は中臣鎌足の妻が祈願した山階寺であり、藤原姓の始まりでもある。興福寺は平城京へ遷都後に現在地に移される。

道長が興福寺の要求に対し、藤原氏とその氏寺が争うことは避けるべきだとして冷静に対応する。興福寺サイドの暴挙にため息をつく道長の苦悩が描かれている。

 『源氏物語』の作者、紫式部を主人公にした『光る君へ』。NHK大河ドラマでは、初めて平安中期の貴族社会を舞台に選び、注目されている。第34回「目覚め」では、宮中の人々がまひろ(紫式部)の書いた物語に夢中になる中で、藤原道長は異常事態に直面していた。興福寺の僧らが都に押し寄せて、朝廷に要求を突きつけてきたのだ。その対応に追われた道長は……。『偉人名言迷言事典』など紫式部を取り上げた著作もある、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

■ 藤原氏とともに発展した「興福寺」とは? 

 当連載でたびたび書いてきたように、知られざる歴史人物の生き様に触れられるのが、NHK大河ドラマを鑑賞する醍醐味の一つである。合わせて、大河ドラマをきっかけに、歴史的な事件についても理解を深められる。

 例えば『光る君へ』では、父の藤原兼家に命じられた道兼が実行役となり、花山天皇を出家させた「寛和の変(かんなのへん)」について、放送時間を割いて事件の背景から詳しい経緯まで丁寧に描いている。

 今回の放送でも、ある事件の背景と、それに対して時の権力者である道長がどんな対応をしたかが描写されていた。

 それは寛弘3(1006)年、興福寺の僧が朝廷に押し寄せて、自分たちの主張を強弁するという騒動である。ドラマでは、興福寺の別当・定澄(じょうちょう)と僧・慶理(きょうり)が道長に面会を求めて、こんなことを言い出した。

 「我らの訴えを直ちに陣定(じんのさだめ)におかけくださいませ。それがならねば、この屋敷を取り囲み、焼き払い奉ります」

 丁寧な言い回しとは裏腹に言っていることはメチャクチャだが、道長は「やってみよ」と一歩もひるまない。そして冷静にこう諭している。

 「本来、藤原氏とその氏寺(うじでら)が争うことなぞ、あってはならぬ」

 まずは、興福寺と藤原氏との関係を押さえておこう。

 「南都七大寺」の一つとして数えられる興福寺は天智天皇8(669)年、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が重い病気を患ったときに、夫人の鏡王女(かがみのおおきみ)が夫の回復を祈願して京都の山科に建てた「山階寺(やましなでら)」が、その起源となっている。

 鎌足がいよいよ臨終するときに、天智天皇はその功績をたたえて、冠位制において最高の冠位である「大織冠(たいしょっかん)」と「藤原」の姓を鎌足に賜与している。これが藤原氏の始まりであり、鎌足の死後は息子の不比等(ふひと)に藤原姓が継承された。

 都が藤原京から平城京に遷都したタイミングで、もともと「山階寺」と呼ばれた寺は、藤原不比等によって現在地(奈良県)に移されて「興福寺」と名を改められた。

 そんな背景を踏まえれば、興福寺サイドの暴挙に、道長がため息をつくのも無理はないだろう。一体、何があったというのだろうか。