実娘を妊娠させるためにわざわざ「国家行事」を催した…NHK大河では「人格者」として描かれる藤原道長の本性

AI要約

藤原道長は権力を維持するためならなりふり構わず行動し、伊周の動向に懸念を抱いていた。

道長は長女の彰子を中宮に据えることで権力を維持しようとしたが、亡き定子への帝の執着が障害となっていた。

道長は彰子が一条の皇子を産むために紫式部に『源氏物語』を書かせるなど、大胆な策を講じていた。

藤原道長とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「権力を維持するためなら、なりふり構わず行動した。それは『金峯山詣』のいきさつを見るとよくわかる」という――。

■ライバル・伊周の動向が気になる藤原道長

 藤原道長(柄本佑)は藤原行成(渡辺大知)に、「藤壺(註・中宮彰子の後宮)に伊周が訪ねてくることはないのか」と尋ねた。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第33回「式部誕生」(9月1日放送)の一場面である。

 行成が「伊周殿は目立った動きは控えておるやに思えます」と答えると、道長は「されど伊周の位をもとに戻したのは、敦康親王様の貢献を見据えてのことであろう。このまま中宮様にお子ができねば、伊周の力は大きくなるやもしれぬ。気は抜けぬな」と、大きな懸念を口にした。

 敦康親王(渡邉櫂)は一条天皇(塩野瑛久)が、寵愛した亡き皇后定子(高畑充希)とのあいだにもうけた第一皇子。定子の兄が伊周(三浦翔平)だから、即位すれば外戚である伊周が力を持つ可能性が高い。道長はそれを懸念しているのだ。

 そういう危険性があるので、道長は長女の彰子(見上愛)を、わずか12歳のときに一条天皇に入内させ、中宮に据えていたのだが、一条は亡き定子に執着し続けて、彰子の後宮に通ってこない。彰子に皇子を産ませ、行く行くはその子を即位させ、天皇の外孫として権力を安定させるのが道長のねらいだが、この時点で見通しは立っていなかった。

 だからこそ、道長はまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に『源氏物語』を書かせ、それを彰子の後宮に置き、文学好きの一条が渡ってくる状況を作ろうとしたのである。

■紫式部に源氏物語を書かせたワケ

 道長の焦りは、第33回の以下のセリフにも表れていた。

 まひろが「ここでは落ち着いて物語を書くことができませぬ。里に戻って書きとうございます。どうかお許しくださいませ」と申し出ると、道長はまひろを制して「ならぬ」と大きな声を出し、こういった。「帝は続きができたらお前に会いたいと仰せだ。お前の才で帝を藤壺に。頼む。帰ることは許さぬ。お前は、わが最後の一手なのだ」。

 むろん、ドラマなので脚色はある。一条天皇が紫式部に会いたがったという話は伝わっていない。それは、まひろという主人公を立てるための創作で、物語に関心をもった一条が彰子の後宮に渡る、という状況をつくりたかったと思われる。

 だが、ドラマと史実のあいだに大差はない。彰子が一条の皇子を産みうる状況をつくるために『源氏物語』を書かせた――。多くの研究者が想定するその線は、ドラマでも外れていなかった。

 だが、それだけでは足りない。道長は大きな一手に打って出た。第34回「目覚め」の予告では、道長ら一行が白装束でどこかに向かう場面が映され、道長の声で「わが生涯最初で最後の御嶽詣である」というセリフが流れた。実際、それが道長の大胆な策だった。

■75日間の政治的空白

 「御嶽詣」とは、寛弘4年(1007)8月に道長が行った「金峯山詣」のことである。金峯山とは奈良県吉野町にある、標高1719メートルの山上ヶ岳を中心とする霊山で、修験道の聖地だった。こう軽く書いても、詣でるのは大変そうに感じられるが、それどころではなかった。これはあまりにも大変な行事だった。

 まず「金峯山詣」をするには、精進潔斎する必要があった。すなわち酒食を断ち、魚食も断ち、1日1食の精進を続け、夜は五体投地の祈りを行うのだが、それを何日も続けなければならなかった。道長の日記『御堂関白記』によれば、閏5月にはじめているので、75日の精進を行ったと思われる。それも、彰子の中宮職の次官であった源高政の家に籠り、家族を遠ざけて精進に専念したのだ。

 『栄花物語』によれば、こうして籠って精進を続けるあいだも、政に関して手を抜くことはなかったという。だが、75日も籠っていて、それはどうだろう。道長を賛美する傾向が強い『栄花物語』ならではの記述ではないだろうか。

 続いて、笠置寺や祇園社、賀茂社などいくつかの寺社を巡って予行練習を行い、ようやく8月2日、都を発って金峯山に向かった。