大河ドラマでは描かれない藤原道長“貴族の頂点”に至る道 一条天皇の心を長女・彰子に振り向かせた「唐物攻勢」【投資の日本史】

AI要約

平安時代に成立し、『源氏物語』の作者・紫式部と権力者・藤原道長を軸にしたNHK大河ドラマ『光る君へ』について。

道長が一条天皇を取り込むために奮闘し、道長の姉・詮子の死後、一条天皇は定子とその一族を重用し始める。

道長は彰子を敦康親王の代母にし、彰子が皇子を出産することを期待して工作を進める。

大河ドラマでは描かれない藤原道長“貴族の頂点”に至る道 一条天皇の心を長女・彰子に振り向かせた「唐物攻勢」【投資の日本史】

 現在放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』は、平安時代に成立し、今も読み継がれる日本最古の長編小説『源氏物語』の作者・紫式部と、時の権力者・藤原道長を軸に物語が展開している。歴史作家の島崎晋氏が、平安中期に天皇の外祖父となり、権勢を誇った道長の「力の源泉」に迫る。藤原道長が持てるコネクションをフル活用して集め、天皇やほかの貴族に惜しげもなく振る舞うことで人心を掌握したという「唐物」とはいったい何だったのか。

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 NHK大河ドラマ『光る君へ』は視聴率の点で低空飛行を続けながら、平安時代の宮中を中心にした人間模様が現代人の心にも響き、満足度の点では高い評価を得ているようだ。第31回「月の下で」(8月18日ほか放送)では『源氏物語』の執筆開始が描かれ、まひろ(紫式部、吉高由里子)に執筆を依頼したのは藤原道長(柄本佑)で、一条天皇(塩野瑛久)をできるだけ多く、道長の長女・彰子(見上愛)の住まう藤壺(後宮にある建物「飛香舎」の別名)に渡らせるのが目的とされていた。

 この間の経緯がどれだけ史実を反映しているかは定かでないが、当時の道長が一条天皇を取り込むため、あの手この手を駆使していたことは間違いない。

 一条天皇は道長の姉・詮子が腹を痛めた子ではあるが、肝心の詮子は長保3年(1001年)に病死。一条天皇は寵愛する定子の一族を重用するようになった。

 定子は道長の長兄・道隆の長女。定子と同母の兄に伊周と隆家などがおり、後世、道長の家系が摂関家と呼ばれたのに対し、道隆の家系は中関白家と呼ばれた。

 摂関家と中関白家の勢力争い。先手を取ったのは中関白家だった。14歳で入内した(一条天皇の後宮に入った)定子が寵愛されたからで、長保元年(999年)11月7日には第一皇子の敦康親王を出産。中関白家は前途洋々かと思われた。

 道長も手をこまねいたわけではなく、詮子を通じた働きかけにより、同年11月1日には長女・彰子の入内にこぎつけたが、彰子は当時まだ12歳の少女。高貴な家での平均的な初産年齢になるまで、まだ何年もある。

 それでも道長は巻き返しのため、できる範囲で工作を始めた。長保2年(1000年)12月、定子がわずか24歳で死去したことを受け、彰子を敦康親王の代母・養育責任者としたのもその一環である。道長は彰子が皇子を出産できずに終わるリスクに備えるべく、後見としての立場を最大限に利用して、敦康親王の籠絡に努めたのだった(9月1日ほか放送の『光る君へ』第33回「式部誕生」では彰子が藤壺の女房らと敦康親王と遊んでいる最中、こっそり菓子を与えて可愛がる場面が描写された)。

 道長にとって最善の展開は、一条天皇が成長した彰子を寵愛し、彰子が皇子を出産することだったが、当初、一条天皇は定子のことが心から離れず、彰子のもとへ渡ることはなかった。