「悶え神」伊東紀美代さんが語る水俣 「水俣曼荼羅」上映会

AI要約

水俣病を巡る長編ドキュメンタリー映画「水俣曼荼羅」の上映会で、水俣病の現状や患者の苦しみ、支援活動について語られた。

伊東紀美代さんが自身の水俣病支援活動や患者との交流、石牟礼道子さんとの出会いについて語った。

映画に登場する患者や家族の生活や闘い、水俣病に対する国や県の姿勢についても言及があった。

「悶え神」伊東紀美代さんが語る水俣 「水俣曼荼羅」上映会

 「悶(もだ)え神、悶えて加勢する。自分は何もできないからせめて水俣の人と嘆き、悲しみを共にしよう」。水俣病を巡る長編ドキュメンタリー映画「水俣曼荼羅」のキャッチコピーだ。今夏、自主上映会が滋賀県内各地で開かれ、最終日となった24日、1人の悶え神が語った。【飯塚りりん】

 映画は原一男監督が水俣病の患者や家族、医師らの日常と熊本県や国と闘う姿を15年掛けて撮った6時間12分の大作。24日にあかね文化ホール(東近江市市子川原町)であった上映会で、50年以上、水俣で患者とその家族の支援を続けている水俣病互助会事務局の伊東紀美代さんが、作品や自身と水俣病との関わりについて来場者に話し伝えた。

 「悶え神」は、1969年に水俣病の患者や家族の苦しみを記した「苦海浄土(くがいじょうど)」の著者、石牟礼道子さん(27~2018年)が映画内で使った言葉。患者以外の人たちがその苦しみを自分のことのように捉え、加勢するという意味だという。伊東さんはまさに悶え神の1人だった。

 ◇「苦海浄土」読み、石牟礼さん宅へ

 伊東さんが水俣病と関わるようになったのは、苦海浄土を読んだことがきっかけだった。患者の置かれた状況に改めて胸を痛めた伊東さんは、「水俣病を告発する会」が発足し、患者たちが国などを相手取って訴訟を起こすことを知り、裁判で手伝えることがあるのではないかと考えた。

 「患者がたまたま目の前の魚を食べて、決して回復できない病気にされてしまった上に、社会的に不遇な状況に置かれているというめちゃくちゃさ、理不尽さを、私にも近いものだと勝手に考えた。この戦いを私の戦いとして戦うと心に決めた」

 その後、伊東さんは石牟礼さんに会いに行き、思いを伝えた。石牟礼さんの自宅に居候することが決まり、東京から水俣に移住した。

 長年にわたって支援活動をしてきた伊東さんは映画に出てくる胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(68)、小児性水俣病患者の田中実子(じつこ)さん(71)の2人とも交流が深い。2人やその家族の日常にも触れた。

 ◇胎児性患者の母「死ぬまで戦う」

 坂本さんは数年前に母を亡くし、現在はショートステイを利用しながら生活している。坂本さんには自立したいという思いが強くあったが、母・フジエさんは障害がある人は家族が見ないといけないという思いが強く、坂本さんの願いが実現することはなかった。幼かったしのぶさんの姉を水俣病で亡くしたフジエさんは「私はしのぶの年だけ戦ってきた、死ぬまで戦う」と口にしていたという。

 映画のラストシーンを締めくくるのは1年ぶりの外出を喜ぶ田中さんだ。田中さんは1987年に両親が相次いで亡くなってから1年ほどは食事も取れず、寝たきりになった。伊東さんは田中さんについて「大脳皮質のほとんどを破壊されてしまったのではないかという状態でコミュニケーションも取れないが、人間的な感情は残っている」と話す。両親の死後、面倒を見てきた田中さんの姉夫婦が体調を崩し、田中さん自身も昨年6月に脳内出血で右半身にまひが残ったことで、起き上がることもできなくなった。現在は24時間の重度訪問介護サービスを利用している。伊東さんは「しのぶさんも実子さんも重い慢性病を抱えているということで、加齢が早い。特に嚥下(えんげ)の際には薄氷を踏むような思いで見ている」と話す。

 ◇「恥ずべきはチッソ、国、県」

 伊東さん自身も映画に何度か登場する。最高裁での勝訴判決を受けた県との交渉のシーンでは、一向に認定基準を見直さない県の姿勢に「あなたたちは最高裁の判決をどうしようと思うんですか。みんなに、これから何十年とこういう苦労を強いるつもりなんですか」と厳しく批判する。

 「水俣病については被害を受けた患者には何の落ち度も恥ずべき所もない。恥ずべきはチッソ、国民の健康と生命を守るべき国と県。その認識が社会の常識になって、誰もが水俣病のことをフランクに話せるようにならなければ、この問題はちっとも解決しない」。強い口調で語る伊東さんは患者たちの近くで今も悶え苦しんでいる。