定子のように一条天皇には愛されなかったが…父・道長亡き後に宮廷のトップに立った彰子の波乱の人生

AI要約

藤原道長の娘である彰子は、一条天皇との間に敦成親王、敦良親王(後のご朱雀天皇)をもうけ、道長の威信を高めた。しかし、一条天皇との関係は政略結婚であり、彼女が一条天皇の寵愛を受けたとは言い難い。

NHK大河ドラマ「光る君へ」において、一条天皇は亡き中宮定子への純愛を貫き、『枕草子』によりその思いをつなげている様子が描かれている。

道長の妻である倫子が彰子を一条天皇に受け入れさせるべく行動する中、最終的に一条天皇は彰子を受け入れる。その決定の背景には様々な要因があった。

藤原道長の娘の彰子は、どんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「一条天皇との間に、敦成親王、敦良親王(のちのご朱雀天皇)をもうけ、道長の威信を大いに高めた。だが、一条天皇の寵愛を受けたとは言い難い」という――。

■皇后・定子が死んでなお「純愛」を貫く一条天皇

 NHK大河ドラマ「光る君へ」の第30回「つながる言の葉」(8月4日放送)では、中宮定子(高畑充希)に仕えた清少納言(ファーストサマーウイカ)が書いた『枕草子』が、宮廷内で大きな評判を呼んでいる様子が描かれた。

 この回で描かれた時代は寛弘元年(1004)ごろだから、長保2年(1000)12月に定子が亡くなってから、すでに3年以上が経過している。しかし、『枕草子』を詠みながら一条天皇(塩野瑛久)は「これを読んでおると、そこに定子がおるような心持になる」としみじみと語った。

 横に控える定子の兄、藤原伊周(三浦翔平)が、「お上の后は昔もいまもこの先も、定子様お一人にございます」と煽ると、「生まれ変わって、ふたたび定子に出会い、心から定子のために生きたい」と、あらためて亡き定子への純愛を吐露した。

 一条天皇の「純愛」について、山本淳子氏はこう書いている。「天皇の結婚は、政略結婚であることが当然である。一条と定子の場合も、典型的とさえいってよい。だが政治の問題とは別に、彼女との出会いは一条の人生を大きく変えた。男女間の『純愛』は明治以降に輸入された概念だというが、一条と定子との関係を表すにはこの言葉がもっとも適切なように感じられる(『源氏物語の時代』朝日新書)。

■なぜ一条天皇は彰子を受け入れたのか

 しかし、これでは一条天皇の気持ちが、藤原道長(柄本佑)の長女で、長保元年(999)11月に数え12歳で入内した彰子(見上愛)に向くとは思えない。第30回でも、一条天皇が彰子のもとを訪れる場面があったが、それはあくまでも、彰子が養育している敦康親王(定子が産んだ第一皇子)の相手をするためだ。

 その様子を遠くから眺めていた道長の正妻で彰子の母、倫子(黒木華)は、「なにゆえに帝は中宮様(註・彰子)を見てくださらないの? 中宮様がなにをなさったというの? 皇后さま(註・定子)が亡くなられてもう4年だというのに、このままでは中宮様があまりにも惨め」と嘆く。

 そして道長に頼み、一緒に内裏に一条天皇を訪ねた。倫子は、藤原行成(渡辺大知)が写した白楽天の『新楽府』を中宮のためにと渡したうえで、彰子を受け入れるように一条天皇に直訴したのである。一条が「朕を受け入れないのは中宮のほうであるが」と伝えると、倫子は「どうか、お上から、中宮様のお目の向く先へお入りくださいませ」と頼み込んだ。

 道長は最高権力者とはいえ所詮は臣下。その妻が内裏に出向いて天皇に直訴することなどあり得たのか――という疑問はさておき、一条天皇が彰子を顧みなかったのはまちがいなく、その状況が伝わる描き方だった。

 しかし、一条天皇は最終的には彰子を受け入れる。なにがきっかけだったのか。

■なぜ道長は紫式部を抜擢したのか

 実際、『枕草子』の力もあって、一条天皇の気持ちは定子から離れなかった。前出の山本淳子氏はこう記す。「『枕草子』のある限り、定子はその中で生き続ける。生前よりももっと魅力に満ちて。何よりも、生ける彰子を凌駕する存在として。これでいいのか。いや、決してよくはないが、どうすればよいのだ。時の最高権力者・道長にしても、この小さな文学作品の持つ力を前にして、太刀打ちする術もなかった」(『道長ものがたり』朝日選書)。

 一条天皇は元来、文学好きだった。当時の宮廷社会では、男性にとって文学といえばまず漢詩。一条も少年時代からこれを好み、失脚する前の伊周をたびたび呼んで漢詩の話をさせ、ときに深夜におよんだという。

 そんな一条天皇だからこそ、なおさら『枕草子』に心を奪われたのであれば、道長も文学で対抗しようと考えるのは自然である。また、紫式部に白羽の矢が立ったのも、そう不自然なことではない。

 道長と紫式部がかつて恋人同士だったからではない。紫式部の死んだ夫、藤原宣孝は道長の部下で、宇佐から帰ると道長に馬を献上するなど関係は濃厚だった。また、紫式部の父の藤原為時が、越前守として赴任できたのも道長の差配だった。そのうえ紫式部は、道長の正妻である倫子の又従兄弟(またいとこ)だった。紫式部は自分の才能が、最高権力者たる道長に伝わりやすい位置にいたのである。