【写真ルポ】日航ジャンボ機墜落事故の1年後、御巣鷹の尾根に響いた犠牲者遺族の嗚咽

AI要約

1985年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故の悲しみを取り上げた記事。39年が経過しても、遺族の悲しみは癒えることなく、慰霊行事が続く様子が描かれている。

遺族たちは、尾根に整備された登山道をたどり慰霊の旅に出る。それぞれの思いを胸に刻みながら、亡き人を偲んでいる。

怒りや悲しみ、そして受け入れの難しさ。事故の原因や責任を巡り、遺族たちの複雑な感情が浮かび上がる様子が語られている。

 (フォトグラファー:橋本 昇)

 毎年8月が来ると、あの衝撃と悲しみの夏を思い起こす。1985年8月12日の日航ジャンボ機墜落事故から39年目の今年も暑い夏がやって来た。

 事故で亡くなった520名の犠牲者の家族は、亡くなった親の、夫の、妻の、息子の、娘の年齢をまたひとつ積み上げる。生きていれば……。今年も蝉が鳴き、空をトンボが飛び回っている。

 1986年、事故から一年後、遺族はまだ辛い記憶が生々しい中で現地での一周忌に臨んだ。

 【参考】橋本昇氏が日航ジャンボ機墜落事故翌日に現場入りした時の追憶記<御巣鷹山、カメラマンが事故直後に見た忘れ得ぬ光景>

■ 事故当時の日航社長もお詫びの登山

 事故発生時には深い谷に沿って大きな岩が転がる獣道だった御巣鷹の尾根への登山道は一年間で整備されていた。

 その道を喪服姿の遺族たちがゆっくりとした足取りで登って行く。

 途中の休憩地点では日航の職員が黙って深々と頭を下げ、冷えた飲み物を登山者たちに手渡していた。

 日本航空の高木養根前社長も息を弾ませながら登っていたが、社長にとっては針の山を登るにも等しいお詫びの道だった。

 途中に座っていた男性に頭を下げたが、男性は返事もしない。その男性は静かに言った。

 「僕は慰霊式には出ないよ。この一年は何も手につかず、ただぼんやりとしているばかりで……。今日はひとり静かにここで祈りたいんだ」

■ そこかしこで遺族の慟哭

 尾根では花や菓子を手にした大勢の人が、それぞれに亡き人を偲んでいた。

 数珠を手に祈る老夫婦、故人と酒を酌み交わす人、号泣する女性。悲しみは未だ癒えるはずもなく、至る所から漂う線香の煙が尾根を流れていった。

 「主人は東京への出張帰りでした。もう戻って来ないのですね。とても淋しいです。でも生存者がいたことに救われた気持ちです。よく生きておられたと」

 「どんなに恐ろしかったことか……。最後は諦めたんでしょうかね」

 「安全神話なんて信じられない。もう飛行機には乗りたくないね」

■ 亡くなった人は戻らない、分かってはいるが…

 夕方から一周忌の慰霊式が麓の上野村で行われたが、ここでも、ずらっと並んで深々と頭を垂れる日本航空の経営陣に向けられた遺族たちの視線は厳しかった。

 突然家族の命が奪われたという現実は簡単に乗り越えられるものではない。しかもその原因は、ボーイング社による圧力隔壁の修理ミスと、それによって生じた金属疲労による亀裂を点検で発見できなかったという人為的なものだった。どれだけ詫びて頭を下げられても、納得できる話ではない。怒号も飛んだ。

 だが、怒りをぶつけても亡くなった命は戻らない。そんな交錯する感情が遺族たちの視線の奥に感じられた。

■ 今年もまた8月12日がやってくる

 この事故で亡くなった520名は当時のままの面影で御巣鷹の尾根に眠っている。昨年の慰霊登山で話を聞いた77歳の女性は言った。

 「あの時のことは、夢の中の出来事のようで、はっきりとは思い出せないのよ。ただ夢中で息子の手を握って山を登ったことだけは覚えているのだけど」

 彼女は今年も息子と御巣鷹の尾根に登り、優しい夫のあの時の面影に話しかけるのだろう。

 (以下、写真ページ)