「平井文夫の言わねばならぬ」は本日最終回です 長い間ご愛読ありがとうございました またどこかでお会いしましょう さようなら

AI要約

1985年8月、26歳。日航機墜落事故取材で消防団員の涙を目撃。

1988年9月、29歳。天皇陛下の手術取材で病状を取得し、死因の予想が的中。

28年後、ドクターX(父)の十二指腸がんでの入院と死去。昭和天皇と共通の死因。

「平井文夫の言わねばならぬ」は本日最終回です 長い間ご愛読ありがとうございました またどこかでお会いしましょう さようなら

私事ですがフジテレビを8月末に退社することになりました。このコラムは本日最終回です。22歳で大学を卒業してから43年間、長いフジテレビ記者生活でした。最後なので少しだけ振り返ってみます。

1985年8月、26歳。初めて大きな取材をしたのは群馬県・御巣鷹山の日航機墜落事故だった。乗客乗員520名が死亡し、生存者は4名。このうち12歳の女子中学生を救出した消防団員と現場の山に登った。険しい道を腰の曲がった遺族のおばあさんが日航職員や消防団員ら数人に抱え上げられるように登って行く。暑かった。

現場に着くと辺り一面真っ黒に焼け焦げて機体の残骸が散乱し、死臭がすごかった。地獄とはこういう所なのかと思った。取材中の社会部の入江敏彦記者が「初日はこの臭いで飯食えなかったんですが2日目からは腹が減って食ってます」と申し訳なさそうに言っていた。

消防団員に救出時の様子をインタビューしたら「生きている子を助けるために多くのご遺体を踏んで走りました。申し訳ないことをしました」と叫ぶように語った。終わった後カメラマンが「撮れてない!」という。急な山道の移動で故障したらしい。

カメラが修理で直ったので嫌がる消防団員に頼み込んでもう一度同じことを喋ってもらった。すると「ご遺体を踏んで…」のところで彼の顔が歪んで、ポロポロ涙が出始め、最後は「申し訳ないことをしました」と嗚咽しながら声を絞り出した。びっくりした。毎年夏になるとあの暑い日と消防団員の涙を思い出す。

1988年9月、29歳。天皇陛下が腸の病気で開腹手術を受けられた時は宮内庁クラブにいた。病状を取材するのに侍医、執刀医を夜回り取材したが守秘義務があるから誰も喋らない。専門医に聞いても「診てない患者のことは言えない」と言う。

ようやく1人見つけてその後は病状を正確に把握できた。宮内庁の発表では病名は慢性すい炎だったが、我々がドクターXと呼んだその医師は「すい臓か十二指腸あたりのがんだろう」と断言した。

当時天皇崩御の際に民放テレビ局は3日間CMなしで放送するという内規があったので、毎晩7時に行われる報道局の編集会議には普段は来ない営業や総務の社員も駆けつけ、私がFAXで送って社会デスクが読み上げるXの「病状メモ」に耳を傾けた。

Xによると陛下の年齢(85歳)では、すい炎とがんで治療法や余命に大きな違いはなく、侍医団はある程度の延命治療を行うが余命は1年くらいではないかということだった。実際には手術から1年3ヶ月でほぼ的中した。

1989年1月7日早朝、昭和天皇崩御。宮内庁発表の死因は十二指腸がんだった。昭和が終わった。

その28年後、ドクターXが下血で入院との知らせを受け病院に駆けつけた。医師の説明を聞いていたら「デジャブ(既視感)」を感じた。「下血」「大量出血するので水分は取れない」「血圧が下がると怖い」などいつか聞いた話だった。1ヶ月後にXは亡くなった。昭和天皇崩御の日と同じような1月の寒い日だった。死因は同じ十二指腸がん。ドクターXは私の父だった。