「日航機墜落事故」39年後に湧いた真相への疑問 時間の経過により見えてきた真実とは?

AI要約

1985年8月12日に起きた日航ジャンボ機墜落事故について、元日航取締役の手記が新たに明らかになった。事故原因を担当した松尾芳郎氏によるファイルには、警察や検察の事情聴取内容が詳細に記されていた。

松尾は事故前に起きたしりもち事故時に圧力隔壁の修理をボーイング社に依頼するよう進言し、その修理ミスが後に墜落事故の原因に関わっていた。

ファイルは1985年当時の技術部長の手記であり、松尾が取り調べ内容をノートにまとめホテルからファクシミリで日本航空本社に送っていた。

「日航機墜落事故」39年後に湧いた真相への疑問 時間の経過により見えてきた真実とは?

520人の命を奪った航空史上最悪の「日航ジャンボ機墜落事故」は、1985年8月12 日に起きました。事件や事故が起きた直後と時が過ぎた後では、その見え方が違ってきます。新たな証言や関連資料が出てきたり、時間の経過がそれまでの社会通念や固定観念などを拭い去ることがあるからです。

本稿は元日航取締役(技術担当)の松尾芳郎氏への、2020年以降の取材をベースとした木村良一氏の著書『日航・松尾ファイル -日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか』より一部抜粋・再構成のうえ、事故が起きた原因への数々の疑問を提示します。

■当時の技術部長による手記

 航空史上最悪の「日航ジャンボ機墜落事故」のあるファイルを手に入れた。入手のいきさつは後で説明するが、「手に入れた」というよりも「託された」のだと思っている。もちろん、このファイルが外部に出るのは初めてのことである。

 ファイルは1985(昭和60)年8月12日の墜落事故の発生時、日航取締役の整備本部副本部長で、日航社内で事故原因の調査を担当した最高責任者の松尾芳郎によって書かれ、まとめ上げられた。松尾は事故当時54歳だった。

 墜落事故の機体(型式B‐747SR‐100、国籍・登録記号JA8119)が7年前に大阪国際空港(伊丹空港)で起こした「しりもち事故」のときには松尾は技術部長という要職にあり、後部圧力隔壁の修復を含めた機体の修理をアメリカの航空機メーカー、ボーイング社に「すべて任せるべきだ」と進言した人物である。後にこの圧力隔壁の修理ミスが墜落事故の原因に結び付くことになる。

 ファイルには松尾が警察と検察に受けた事情聴取の内容が克明に記されている。松尾は群馬県警察特別捜査本部の取り調べが終わると、取り調べの内容やその様子をノートに書き上げ、その日のうちに宿泊先の前橋市内のホテルからファクシミリで東京・丸の内の日本航空の本社に送った。いまと違いパソコンや携帯電話はなく、ファックス、固定電話、郵便が伝達手段だった時代である。