原爆で後頭部に傷、髪は抜け落ち…「ゲンバク」と呼ばれた少年時代 中学卒業時には新たな困難

AI要約

長崎市の被爆者で被差別部落出身の中村由一(よしかず)さんが、原爆と差別に耐え抜いた人生を振り返る。

幼少期からいじめや差別に苦しんだ中村さんは、被爆後もさまざまな困難に立ち向かいながら生き抜いた。

現在は反核、反差別の活動を通じて、自らの経験を語り継ぎ、平和への決意を示している。

原爆で後頭部に傷、髪は抜け落ち…「ゲンバク」と呼ばれた少年時代 中学卒業時には新たな困難

 被爆と差別の二重苦を生き抜いてきた人がいる。2歳で原爆に遭った長崎市の中村由一(よしかず)さん(81)。子どもの頃は体に負った傷から「ゲンバク」と呼ばれ、いじめられた。被差別部落出身であることを理由に就職差別も受けた。長崎原爆投下から79年の9日は、家族や仲間が眠る故郷の共同墓地で犠牲者を悼み、反核と反差別の誓いを新たにする。

 1945年8月9日、爆心地に近い浦上地区の自宅に兄弟3人でいた。爆風で吹き飛ばされ、がれきの下敷きになった。1歳の弟は炎に巻かれて死亡。自身を助け出した7歳上の兄も、1カ月後に亡くなった。

 戦後、爆心地から約5キロの市中心部に両親と移り住んだ。原爆のせいで後頭部に大きな傷があり、髪は抜け落ちていた。足の指はやけどで動かず、足を引きずって歩いた。小学校では同級生や担任教諭から「ハゲ」「ゲンバク」と呼ばれた。お古の教科書に、穴が開いた服。からかわれるのは日常茶飯事だった。

 小学1年で父が死去。読み書きができない母は昼も夜も肉体労働に汗を流し、生活を支えてくれた。

 6年間に及ぶいじめに耐え、迎えた卒業式の朝。「母ちゃんの卒業証書やけんね」。感謝を込めて伝えていた。その証書を式の後、同級生に奪われた。頭が真っ白になり、相手を突き飛ばしていた。証書は取り戻したが、破れていた。

 中学卒業時には、新たな困難が待ち受けていた。造船所に就職を希望したが、面接で出身地を問われ、不採用になった。母から初めて被差別部落の出身と聞かされた。ショックと同時に、怒りが湧いた。

 革靴職人などを経て、郵便局に就職。不自由な足で配達した。40代になると部落解放運動に加わった。

 「差別と戦争の苦しみを受けるのは僕たちで最後にしないといけない」。仕事の合間に、被爆と被差別の体験を修学旅行生らに年40回ほど話すようになった。語ることで、長い苦しみが癒えていくように感じた。

 数年前に脳梗塞で倒れて話す機会は減ったが、被爆者らが毎月9日に平和祈念像前に集まる「反核9の日座り込み」には約40年間参加。反戦、反核、反差別の意思を示し続けている。

 パレスチナ自治区ガザでの戦闘激化など世界では争いが絶えない。犠牲になった子どもたちの姿が、兄弟やかつての自分と重なる。「差別が戦争を引き起こし、戦争が新たな差別を生む。本当の平和をつくるには差別をなくさないといけない」。多くの痛みを知るからこそ、そう確信している。

 (松永圭造ウィリアム)