胸にしまっていた79年前の体験、97歳語り始める 被爆と空襲「戦争や核被害どんなに惨めか」

AI要約

広島市中区の97歳の森田眞さんが、戦争体験を語り始める。爆撃や空襲を乗り越えた彼は、戦争の惨状を伝えることの重要性を感じている。

戦火に遭った広島での生々しい体験や、戦後の苦難を乗り越えた森田さんは、70代でがんにかかった際も恐怖を感じる。

現在の平和な広島を見て、過去の記憶を振り返りながら、戦争の悲惨さと平和の尊さを家族に伝える森田さんの姿が描かれる。

胸にしまっていた79年前の体験、97歳語り始める 被爆と空襲「戦争や核被害どんなに惨めか」

 広島市中区の森田眞(まこと)さん(97)が今年、胸の奥にしまっていた体験を語り始めた。原爆と東京での空襲という戦禍を乗り越えた。壊滅した街や無残に傷つけられた人たち、そして弟のはかない死。脳裏に焼き付いた記憶は忘れようにも忘れられない。当時を知る人がめっきり減る中、「戦争や核の被害がどんなに惨めなものか、伝えないと」との思いを募らせる。

 森田さんは6日朝、市の平和記念式典のテレビ中継を見て過ごした。「弟のことを思い出してしまう。『行ってきます』という声が忘れられない」と話す。

 あの日、爆心地から約3キロの広島市翠町(現南区)の自宅に両親といた。米爆撃機B29の低くうなる音を聞いて外に出た瞬間、視界が白い強烈な光に覆われた。幸い3人とも無事だったが、弟の修さん=当時(13)=は市中心部の国民学校へ路面電車で向かった後だった。

 翌7日午後、父が自宅近くで砂ぼこりだらけの修さんを見つけた。体を洗い、桃を与えると「おいしい」と顔をほころばせた。燃えさかる電車から兵士に救われたこと、橋で熱風に飛ばされ川に落ちたことなど避難の様子を一気に話すと、安心した表情を浮かべ、そのまま帰らぬ人になった。

 自らも弟を捜す中、肌が焼けただれ、泣き叫ぶ女の子や死んだ赤茶色の馬、手の皮をぶら下げながら歩く人々を見た。その3カ月前の5月25日に下宿先の東京・六本木で遭った空襲では、焼夷(しょうい)弾が雨のように降り、逃げる少年の片足が吹き飛ばされるさまも見た。それらは全て忌まわしい記憶になった。

 家業を継いで歯科医になった森田さんは70代で前立腺がんと診断され、無防備で核被害にさらされた恐怖も感じた。子と孫に恵まれたが、むろん戦禍の生々しさをみな知らない。「悲惨さを知らなければ平和の尊さも分からない」と、家族に体験を語るようになった。

 森田さんは6日夕、被爆直前に建物疎開になるまで住み、戦後も歯科医院があった中区鶴見町付近を歩いた。平和大通りを見渡し、「街はきれいになった。昔の面影はないけれど、つらい記憶も乗り越えて今の広島がある」とかみ締めるように話した。