「遺体がゴム風船のように膨らんどった」原爆の熱線が人間の内臓まで破壊…死者14万人“広島原爆”で被爆した93歳男性が明かす“凄惨な記憶”

AI要約

広島市に原子爆弾が落とされ、約14万人が命を失った悲劇が79年前に起こった。

被爆者の山本定男さんが爆心地から2.5km離れた場所で被爆し、現在も被爆体験を語り継いでいる。

広島へ向かうB29爆撃機「エノラ・ゲイ」号の様子や、広島市の特徴、被爆前の状況が描かれている。

「遺体がゴム風船のように膨らんどった」原爆の熱線が人間の内臓まで破壊…死者14万人“広島原爆”で被爆した93歳男性が明かす“凄惨な記憶”

 広島市に原子爆弾が落とされてから、今日8月6日で79年となる。「リトル・ボーイ」と名付けられたその新型爆弾によって、市街地は一瞬で焼け野原となり、1945年(昭和20年)12月末までに約14万人が命を落としたと言われている。

 この悲劇を実際に体験したのが、被爆者のひとり、山本定男さん(93)。山本さんは、広島県立広島第二中学校2年生だった14歳の時、爆心地から約2.5kmの東練兵場で被爆した。現在は、原爆の記憶を風化させないよう、被爆体験を後世に語り継いでいる。

 原爆投下直後、山本さんはどんな光景を目撃し、どのように生き延びたのか。ノンフィクション作家のフリート横田氏が山本さんに取材し、当時の惨状を聞いた。(全2回の1回目/ 2回目に続く )

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 月曜日の、晴れた夏の朝のできごとだった。

 科学観測機、写真撮影機の同型2機を従えたB29爆撃機「エノラ・ゲイ」号は、数時間さかのぼる真夜中2時前、新型爆弾を搭載して太平洋の小島・テニアン島を離陸、6時間半かけ長駆2700キロを飛び、日本本土上空へ迫っていた。

 向かう先は、確定していなかった。4か月前は17か所もの候補地があり、5月には4つにまで絞られ、この日未明、気象観測機が小倉、長崎、広島と3つの都市に向かっていたが、最終目的地はいまだ揺れていた。

 朝7時15分頃、先発の気象観測機から連絡が入る。「広島上空は晴れ」。――4日前に決まった第1目標都市のまま、変更の必要はない。新型爆弾の投下都市はこのとき定まった。3機は、機首を広島へ向ける。どの航路が選択されようとも救いのない道であった。

 広島は、日清日露戦争時は兵員集結と出発の地であり、太平洋戦争末期は西日本の軍を統括する第二総軍司令部もおかれる軍都でありながら、主要都市が空襲で壊滅する時期にあってもほとんど焼かれていなかった。街の東西の幅は、おおよそ5km。新型爆弾の効果測定をするにふさわしい直径3マイル(約4.8km)以上の市街地に合致したからだと言われる。

 一発の爆弾でどれほど建物が破壊されるか、どれほど人が死傷するか、焼け野原では効果が測れない。乏しい物資や粗末な食事に日々耐えながら、働き、暮らしていた約35万の人々は、街が、自分が、実験対象に決まったことなど知る由もない。