「織田信長を2度も裏切った男」は本当に極悪人だったのか…最新研究でわかった武将・松永久秀の本当の姿

AI要約

戦国時代の武将、松永久秀に対するイメージが近年の研究で大きく変化している。以前は悪行の限りを尽くした「梟雄」として知られていたが、実際には出自不明から始まり、異例の出世を果たすまでの経緯が明らかになっている。

久秀は三好長慶の家臣として頭角を現し、主君や将軍を支持する立場から徐々に重要な役割を果たしていく。その結果、久秀は将軍直臣格に加えられるなど極めて異例な待遇を受けることとなった。

久秀の下剋上の特徴は、主君や将軍をないがしろにすることではなく、朝廷や幕府から同等の待遇を受けることであった。久秀の場合、出自が不明な身分から立身し、主家や将軍一門と同格の地位まで昇った点が特筆される。

戦国時代の武将、松永久秀とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「戦国時代最大の梟雄として知られているが、近年の研究でその評価は大きく変わっている」という――。

■「将軍を殺し、主君を殺し、大仏殿を焼き払った」

 「下剋上」という言葉から、多くの人が真っ先に思い浮かべる人物のひとりが松永久秀だろう。私自身、かつては大嫌いな歴史上の人物の筆頭だった。なぜなら、重源上人が率いた復興事業により鎌倉時代初期に再建された東大寺大仏殿を、焼き払った張本人だと認識していたからである。

 事実、江戸時代以来、そう信じられていた。それに久秀のマイナスイメージは、東大寺への放火にとどまらない。

 『信長公記』の作者である太田牛一による『太かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』には、13代将軍足利義輝を討ち、主君の三好長慶をそそのかして、その弟の安宅冬康を殺させ、その息子の義興を毒殺。また、信長の家臣になるも背き、東大寺大仏殿を焼いた報いによって焼死した、という旨が記されている。

 また、戦国時代から近世初頭まで約50年間の武士の逸話を、江戸時代中期に備前岡山藩の儒学者、湯浅常山がまとめた『常山紀談』には、こう書かれている。

 「東照宮、信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり、信長、この老翁は世の人のなしがたき事三ツなしたる者なり、将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり(徳川家康が織田信長と対面したとき、傍らにいた松永久秀について、信長は『この老人は常人にはなせないことを3つも行った。将軍を殺し、主君の三好(長慶の息子の義興)を殺し、東大寺大仏殿を焼失させた松永という人物だ』と紹介したので、松永は汗を流して顔を真っ赤にした)」

■近年の研究で「松永久秀像」は大きく変わった

 将軍も主君も殺害し、大仏殿まで焼いたなど、まさに「世の人のなしがたき事」にほかならない。だから「梟雄」とはだれかという話題になると、斎藤道三らと並んで必ず名前が挙がる。以前も歴史雑誌が行った「『梟雄』と聞いて思い浮かべる歴史人物は?」というアンケートで3位だったが(4位以下に大差をつけていた)、戦国最大の梟雄というイメージを抱く人も多いだろう。

 だが、近年の研究で、久秀像はすっかり変化を遂げたといっていい。

 明応2年(1493)、室町幕府のナンバーツーである管領の細川政元は、10代将軍足利義材を追放して足利義澄を将軍に擁立(明応の政変)。以後、将軍家が分裂して畿内はもとより全国の政情は不安定になるが、畿内はおおむね細川家の勢力下に置かれる。

 政元から2代目の細川晴元に仕えていた三好長慶は、天文18年(1549)、不甲斐ない晴元らの軍と戦って撃破した。これを受けて、13代将軍義輝も近江(滋賀県)に退却したので、長慶は摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)の国主になるとともに、京都を軍事的に占領。畿内最大の実力者になった。

 摂津国五百住(大阪府高槻市)の百姓の出である可能性が高い松永久秀は、実務に加えて軍事的な才もあって頭角を現す。長慶の京都占拠後は、訴訟を長慶に取り次ぐほか、家臣に軍役を賦課するための情報管理まで、三好家の万事を取り仕切る存在として、家臣団のなかでも筆頭の地位を得るようになった。

■「出自不明」からの大出世

 三好政権は将軍義輝を公然と非難し、足利将軍家に頼らず京都を支配した。細川氏をはじめそれまでの実力者が、将軍を必ず擁立していたのにくらべて画期的だった。そんな政権で、たとえば近江の六角氏に、義輝を見限って三好につくように誘いかけるなど、大名間外交を担ったのは松永久秀だった。対幕府、対朝廷の重要案件も久秀が裁いた。

 その結果、久秀は破格の出世を遂げていく。永禄2年(1559)12月、三好氏との友好関係を模索する将軍義輝は、まず長慶の嫡男の孫次郎に「義」の偏諱を授与(義長となり、のちに義興と名乗った)。続いて、永禄3年(1560)2月には、義長と久秀がそろって、将軍の直臣格である御供衆に加えられた。

 さらに永禄4年(1562)には、義長と久秀がともに従四位下に任ぜられたが、この位階は、久秀の主君の三好長吉や将軍義輝と同格である。そのうえ、長慶と義長の親子ばかりか久秀までが、義輝から桐紋を拝領した。のちに織田信長や豊臣秀吉も、天下人になった証明として拝領した桐紋を、元来は三好家の家臣にすぎない久秀が授けられたのである。

 天野忠幸氏はこう書いている。「久秀は朝廷と幕府の双方から、主君と同等の待遇を受けたことが、極めて異例なのである。久秀にみる下剋上の特徴とは、主君をないがしろにしたり、傀儡化したりすることではない。(中略)特筆すべきは、将軍を頂点とする家格秩序が存在し、全国の戦国大名がそれに服している中で、出自がほとんどわからない身分から、自分一代で主家と同格、さらには将軍一門にも准ずる地位を、朝廷からも幕府からも公認されたことなのだ」(『松永久秀と下剋上』平凡社)。