衰えた室町幕府が滅亡しなかった理由、専制権力を振り回し全国制覇に邁進していた織田信長との対比

AI要約

室町幕府の樹立から滅亡、そして織田信長による幕府への最後の一撃までの歴史を要約する。

内乱や権力闘争によって室町幕府が弱体化し、群雄割拠の時代へ突入する。

織田信長によって室町幕府を打倒し、信長の突然の倒れによって権力争いが生じる。

 (歴史ライター:西股 総生)

■ 群雄割拠の時代へ

 1333年に鎌倉幕府が倒れたのち、南北朝内乱の紆余曲折を経て、足利尊氏が京都に新しい武家政権を打ち立てる。室町幕府である。

 このとき、尊氏が朝廷を打倒しなかった理由は、明確である。室町幕府樹立のきっかけとなった内乱は、そもそもが朝廷(皇統)の分裂に起因するものであり、尊氏は一方の北朝側から征夷大将軍に任じられることで、武家の棟梁の立場を得たからだ。

 したがって、尊氏には吉野の南朝を打倒する理由はあっても、京の北朝を倒す理由がなかった。それどころか、北朝がなくなってしまったら尊氏の権力も正当性を失うのだ。

 武家政権である幕府と朝廷とは、またしても併存することとなったが、王家と貴族社会の力は目に見えて衰えていった。内乱がずるずると続いた結果、各地の武士たちが、貴族社会の経済基盤である荘園を食い荒らしていったからだ。

 その室町幕府も、1467年に始まる応仁の乱によって衰える。この乱はもともと、幕府内部での家督争いと権力闘争から始まったもので、いつ乱が終わったのかすらはっきりしないほど、戦いは泥沼化した。将軍家の家督争いもずるずると続いて、京をめぐる戦いもやまず、将軍が京から追い出されることもしばしばだった。

 こうなっては、将軍家に全国の武士たちに号令する力はない。日本が群雄割拠の時代へと突入するのも、当然だった。

 それでも、将軍家が首を取っ替え引っ替えしながらでも存在している以上、室町幕府は滅亡しなかった。おまけに、各地の戦国大名たちも将軍の権威を都合よく利用した。自分で勝手に始めた戦争が行き詰まったときに、将軍家から和平勧告をもらえば都合よく停戦できるし、官位・官職をもらうとハク付けになって、ライバルに差を付けられるからだ。

 こうして室町幕府は、弱体化し矮小化しながらも、細々と存続した。経済力をすっかり失った朝廷(王家と貴族社会)に至っては、もはや打倒する価値すらなかったから、戦国大名たちは権威として利用するだけ利用した。

 軽く一蹴りすれば消し飛ぶほどになった室町幕府に、本当に一蹴りを入れたのは織田信長である。すなわち1573年、15代将軍の足利義昭と不仲になった信長は、義昭を京から放り出してしまったのだ。

 これまで幕府の実権を握ってきた武将たち(細川政元・三好長慶・松永久秀ら)は、すげ替えた将軍を操っては権力を握っていた。しかし、こうした行為を繰り返したおかげで、すげ替える首の在庫が払底してしまったのだ。

 いや、探せば誰か替わりがいたかもしれないが、信長はそんな面倒なことに手間をかけはしなかった。自分で戦争を仕掛けて勝利した方が、メリットが大きいからだ。

 ただし、室町幕府は滅亡したわけではなかった。足利義昭が生きていたからである。義昭は、供回りを大勢連れて備後の鞆の浦に下り、毛利氏の庇護を受けて信長打倒・京都帰還を画策していた。信長が義昭を殺さず、替わりの将軍も立てなかったおかげで、義昭は第15代将軍足利将軍のままでいられたのだ。

 かくて、専制権力を振り回して全国制覇に邁進していた織田信長は、衰退も矮小化もしなかったが、1582年の6月に突然倒れた。明智光秀が謀反を起こして、信長を討ったからである。その光秀が、わずか12日後に羽柴秀吉によって滅ぼされると、信長の持っていた「天下人」としての権力は行方不明になってしまった。(つづく)

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