大人の陰謀にまみれた中で天皇に7歳の即位当日に「生首事件」一条天皇の“あまりに波乱な人生”

AI要約

一条天皇は藤原兼家の陰謀により幼少で即位し、周囲の懐疑を招く一方で賢明さを示した。

一条天皇は宮中でも問題視される行動を取りつつも、側近からは「好文の賢皇」と高く評価されていた。

兼家が孫を即位させるために花山天皇を陰謀し、一条天皇が7歳で即位することとなった。

大人の陰謀にまみれた中で天皇に7歳の即位当日に「生首事件」一条天皇の“あまりに波乱な人生”

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第27回は一条天皇の波乱な人生と、素顔が分かるエピソードを紹介する。

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■一条天皇は高く評価されていた

 「天下、甘心せず(天下は感心しなかった)」

 藤原実資が日記の『小右記』でそう記しているとおり、一条天皇の行動は、宮中でも問題視されていたらしい。一条天皇は、兄・伊周の不祥事により出家している定子のことが忘れられず、職曹司(しきのぞうし)に移してまで寵愛を続け、物議を醸すこととなった。

 よほど呆れたのか、実資は「太(はなは)だ稀有なことなり(とても珍しいことである)」とまで書いている。納得できないと藤原道長の命にすら従わなかった実資らしい辛辣さだ。

 しかし、そこには「賢明な一条天皇らしくない」という、実資の思いも込められていたのではないだろうか。

 というのも、一条天皇には、実資と同様に「ダメなものはダメ」という一本筋が通ったところがあり、また側近からも「好文の賢皇」と高く評価される人物だった。

 後に一条天皇となる懐仁が生まれたのは、天元3(980)年6月1日のこと。治世がスタートしたのは、寛和2(986)年6月23日なので、たったの7歳(数え年)で即位したことになる。

 8歳で即位した朱雀天皇や、9歳で即位した清和天皇や陽成天皇よりもさらに幼く、史上最年少(当時)で一条天皇は即位することになった。

 一条天皇が即位したのは、先代の花山天皇が、東山の元慶寺で突然、出家してしまったからだ。その裏には一条天皇の祖父・藤原兼家による陰謀があった。

 兼家は孫を天皇に即位させるために、3男の道兼を花山天皇に接近させる。道兼は「ともに出家しましょう」と 言葉巧みに 花山天皇を誘い出して、剃髪を見届けてから、自分だけ宮中に戻っている。