「硫黄島」は誰のものか…日米交渉を調べて「わかったこと」

AI要約

硫黄島で5万人の日本兵が消えた謎や、硫黄島で起きていた出来事について調査されたノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』の話題と、著者が硫黄島で目にした沈船群の光景について語られている。

硫黄島の西側海岸に広がる沈船群の姿や、その船舶が米軍によって沈められたこと、そして硫黄島の歴史や現状について、著者の視点から描かれている。

米軍が硫黄島を占拠し、硫黄島通信所として利用している現状、日本との交渉などで硫黄島は秘密の島として扱われており、沈船群の撤去や島の名前に関する葛藤が明らかにされている。

「硫黄島」は誰のものか…日米交渉を調べて「わかったこと」

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が11刷決定と話題だ。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

「青年は荒野を目指せ」

中学時代の担任教諭のその教えに導かれ、僕は10代から20代にかけて海外に飛び出した。万里の長城も見たし、ピラミッドも見た。それらを見たときに匹敵する驚きの光景を、僕は硫黄島で見た。西側海岸に広がる「沈船群」だ。

高さ5メートルを超える大型船舶の残骸が約500メートルにわたって砂浜上に点在する。2019年に初めて硫黄島に渡った際、休息日に訪れた。まるで文明の終わりのような光景だと思った。沈没時に船体が折れたタイタニック号のように、前部と後部が分離した船舶が多い。むき出しの鉄骨は、ひどくさびている。一部は約45度に傾斜し、今にも倒れ込みそうだ。その場合、近くに人がいたら、間違いなく命を失うだろう。こんな危険な状況にある退廃的景色が放置されているのは、世界でもここだけだろう。

本土帰還の2週間後に北海道に転勤する僕は、もしかしたら今回が最後の硫黄島上陸になるかもしれないという覚悟を持っていた。思い残すことのないよう、世界でもここだけの沈船群の景色も目に焼き付けようと考え、離島間際の休息日の夕方に訪れた。

これらの船舶は、硫黄島戦の際に撃沈された軍艦ではない。米軍が戦後、港湾を作るために意図的に沈めたコンクリート船とされる。それが、火山活動による島の隆起によって姿を現したとされる。「戦跡」ではない上、宿舎から遠いエリアに位置するため、ここを訪れる遺骨収集団員はほとんどいない。その巨大な姿と裏腹に、知られざる遺物なのだ。

それにしても、と思う。「世界でもここだけ」と思わせる超常的な光景が、ここにあるのはなぜだろう。僕は2019年12月、北海道新聞の連載「残された戦後 記者が見た硫黄島」で「島民がいないためと推察された」と書いた。安全を守るべき民間人がいないのだから、撤去する必要がないと判断されたのではないか。僕はそんな推測をしていた。

しかし、硫黄島を巡る戦後の日米交渉を調べる中で、僕は知ったのだ。

1968年4月5日。小笠原諸島返還協定の調印日。日米地位協定に基づく日米合同委員会で、返還後も引き続き米軍使用区域として認められたのは、島北部の一帯と中央部の滑走路だけではなかったのだ。西側と南側の海岸とその付近海域も含まれていたのだ。

そして、沈船群は、まさに西側の米軍使用区域の一帯に広がる。

そうした知られざる実態は今も変わらない。東京都都市整備局基地対策部編「東京の米軍基地 2020」の地図に、はっきりと記されている。

硫黄島は、国民の視線が遮断され続けている「秘密の島」だ。分からないことだらけだ。沈船群の不撤去と米軍使用区域の指定の因果関係は、今の時点では分からない。米軍の影響が及ぶ島の現状をできる限り変更したくないという日本側の思惑があるのかもしれない。

「東京の米軍基地 2020」には、米軍使用区域の名称として「硫黄島通信所」という日本語表記に加え、英語の正式名称を記している。

「Iwo Jima Communication Site」

硫黄島通信所は「イオウジマツウシンジョ」なのだ。

硫黄島の日本側の呼称は現在「イオウトウ」だ。以前は「イオウジマ」との呼ばれ方もしていたが、戦前の島民の間では「イオウトウ」が一般的だったことから、国土地理院が旧島民の要望を受ける形で2007年に統一した。しかし、戦時中「Iwo Jima」と伝えられてきた米国側の呼称は今でも「イオウジマ」が一般的だ。その響きに米国人は「栄光」「勝利」を想起するようだ。日本側の呼称が「トウ」に統一されたときの新聞報道によると、米国の退役軍人らから反発の声が多く上がったという。

米軍が残した奇怪な巨大遺物は、硫黄島が今なお「Iwo Jima」から脱せないことを示す"モニュメント"のように僕には見えた。

僕はしばし、砂浜に立ち尽くした。

沈船群の向こうの夕日は、水平線近くまで傾いていた。世界の終わりのような退廃的風景をにらむように、僕は眺め続けた。心に焼き付けた。この"モニュメント"が撤去される日が来たならば、それは「Iwo Jima」が「硫黄島」に戻り、旧島民や子孫の自由な帰郷が認められ、緩慢に進んできた遺骨収集が加速する時代の幕開けなのかもしれない。

僕が次に硫黄島に渡るのは、いつになるのかは分からない。5年後だろうか、10年後だろうか。それとも今後の発信活動が意図せぬ作用をもたらし、二度と「硫黄島上陸」を果たせなくなるのかもしれない。

ともあれ、僕は願った。

次にこの島に来たとき、どうか美しい海辺に戻っていますように。

「硫黄島ノ皆サン サヨウナラ」

僕は心の中で"最後の電報"を発した。

そして、回れ右をして、宿舎に向けて歩き始めた。

いつかまた帰っておいで、とささやくように、夕日の温もりが、僕の背中を優しく撫でた。