地下壕の中に「びっしり遺骨があった」…まるで地獄絵図、日本兵1万人が見つからない「硫黄島の現実」

AI要約

硫黄島での遺骨収集活動に参加した人々の体験が語られる。遺骨収集の困難さや現地の状況が詳細に描かれている。

米軍による硫黄島の地形変化や戦後の状況について報告される。遺骨収集活動にどのような影響を及ぼしたかが明らかになる。

遺骨の風化や見つからない理由についての推測が述べられる。歴史的な出来事や遺骨収集団の活動の重要性が強調される。

地下壕の中に「びっしり遺骨があった」…まるで地獄絵図、日本兵1万人が見つからない「硫黄島の現実」

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が11刷決定と話題だ。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

鈴木さんが初めて参加した1977年の遺骨収集団には、硫黄島戦の生還者が大勢いた。終戦から32年。生還者は50代以上になっていた。上陸後、遺骨収集の作業が始まると、生還者たちは驚きの姿を見せたという。

「みんな20代に戻ったように動き回っていた。戦争当時の年齢に若返っていた。20歳ぐらいの精神力だった。戦友を帰そうという魂が入っていた。(当時30代だった)自分より若いと思った。戦友だ、戦友を捜さなくては、という、そういう思い。地下壕の探索では自衛官による有毒ガスの検知が終わる前に、バガバガと入っていった。壕を見つけると、すぐに入っていった」

生還者たちが遺骨を発見したときの様子はどうでしたか、と僕は尋ねた。

「『いやー、待たせたね!』っていう感じで大事そうに拾い上げていました……」

大事そうに抱きかかえるような手振りをして、鈴木さんは言葉少なに話した。目に涙がにじみ、言葉を詰まらせているように僕には見えた。

鈴木さんはこの年を皮切りに、その後も遺骨収集団への参加を続けた。

昭和50年代の状況は現在と大きく違ったようだ。

3日かけて祠を仕上げた鈴木さんは、「南方諸島海軍航空隊(南方空)」の地下壕の捜索を見学させてもらった。発見されてから間もない時だった。1945年3月26日の日本側守備隊による「最後の総攻撃」で組織的戦闘が終わった後、残存兵は投降せずに、島内各地の壕に隠れ続けた。島内で最大規模とされる南方空壕にも大勢が潜んでいた。しかし、水も食糧も尽き、多数が命を落としたと伝えられている。

「内部には、びっしり遺骨があった。足の踏み場もないぐらい。地熱で内部の温度は、60度か70度の熱だった。内部にろうそくを入れたら、グニャリと曲がった。地獄絵図のようだと思いましたよ」

実は、僕は、捜索中の南方空壕の内部の映像を見たことがある。三浦さんが残した資料の中にそのVHSテープがあった。遺骨収集団員が家庭用ビデオカメラで撮影したものだと推察された。映像には、壕の中の階段の一段一段に遺骨がびっしりと載っている様子が映っていた。鈴木さんが言った「足の踏み場もない」という表現は、誇張ではないと思った。

鈴木さんは、2回目以降は何かを作る「大工職人」ではなく、遺骨を捜す「収集団員」として渡った。

約半世紀前に見つけた遺骨と、近年の遺骨は状態が全く違うと、鈴木さんは証言した。「当時の遺骨はずっしりと重かった。頭蓋骨はぴかぴかしていた。でも今、見つかる遺骨は軽い。風が吹けば、粉々になってしまう。そんな遺骨が多い。それだけ風化が進んだということです。戦死者2万人のうち1万人が見つからない大きな理由、それは風化だと私は思っています」。

現在の硫黄島には米軍占領時代の面影はほとんどない。しかし、鈴木さんが収集に参加し始めた当時は違った。次の話は、これまで読んだどの資料にも載っていなかった情報だった。

「米軍キャンプ地跡が東西南北あちこちにありましたよ。朝鮮戦争のときには数万人いたと聞いた。どうしてキャンプ地跡と分かるかというと、その根拠はベースコンクリートです。ベースコンクリートとは、建物の基礎のコンクリートのことです。厚さ10センチぐらいか、それ以下。今も重機で土を掘ると、あちこちから、これが出てくるんです。一見してジャングルに見えるところでも、掘ると出てくる。長い年月でコンクリートが土に埋もれ、草木が生え、ジャングルになったということです」

つまり、硫黄島の大部分は戦後の一時期、米軍キャンプ地化したということだ。硫黄島が、以前の姿のまま米軍から返還されれば、格段に遺骨収集が進んだろう。島の地形の激変が、生還者の証言に基づく捜索を阻んだ、という旧厚生省の報告書の記載を裏付ける証言だと僕は思った。

米軍が島を変えた歴史の象徴とも言える、ベースコンクリートを見てみたいと僕は思った。

今回の在島中、休息日に鈴木さんに案内してもらった。最初に連れて行ってもらった場所では、その希望は叶わなかった。一面がジャングルになっていたためだ。

「いやー、驚いた。今、立っている場所は、間違いなく、コンクリートの基礎がむき出しになっていた場所ですよ。それがこんなに植物に覆われてしまうなんて……」

しかし、次に案内された場所で、希望は叶った。鈴木さんに「ここですよ」と案内された場所は、東西に延びる自衛隊滑走路の東端から、さらに東側の原野だった。地熱が高いためか、草木はわずか。荒野という表現の方が近いかもしれない。辺り一面、真っ平らだ。目をこらすと、縦横10メートルほどのベースコンクリートが敷かれているのが分かった。

温もりも何もない、無機的な構造物が、おそらく米軍によって真っ平らにされたであろう土地にぺったりと覆い被さっていた。米軍がここにコンクリートを流し込む時、地中に遺骨があるかどうかを確認したとは思えない。ベースコンクリートが今も残っているということは、ここの下にも遺骨が眠っている可能性があるということだ。

僕は、自衛隊滑走路に降り立った時と同様、この上に立った際、まるで遺骨を踏みつけてしまったような申し訳なさを感じた。

米軍が地を覆ったコンクリートは、滑走路の舗装以外にも無数にあったのだ。