廃校小学校の絆が生んだ支援…能登を離れた私にできること【震災6カ月】

AI要約

穴水町甲地区の住民たちが復興への悲痛な声を上げている。

地域の被災家屋の修理や再建という重い決断に直面している高齢者たちの姿が描かれる。

筆者の実家も被災し、復興に向けて進む中で壁にぶつかる苦しみが綴られる。

廃校小学校の絆が生んだ支援…能登を離れた私にできること【震災6カ月】

「地域に自販機すら1台もなくなってしまった。買い物に片道1時間かかる」

「近くでは魚が買えなくなってしまった」

「家の工事のめどすら立たない」

5月下旬、石川県穴水町甲地区の公民館前。晴空のしたで開催したカフェイベントに、住民たちがコーヒーを飲みに集まっていました。

自宅が半壊や全壊の被害を受けた人が多く、公民館の隣に完成したばかりの仮設住宅に暮らしている人たちも少なくありません。

集まったおばあちゃんたちは笑顔で世間話に花を咲かせていましたが、私が「いま困っていることはない?」と話かけると笑顔が消え、冒頭のように、遅々として進まない復興への諦めのような言葉が続きました。

石川県穴水町甲地区は私が生まれ育った故郷です。人口が4月現在で777人、65歳以上の高齢化率が64.6%に上る集落です(中日新聞報道による)。

私は普段、埼玉県に住んでいますが年末には帰省しており、例年と同じようにお正月を地元で過ごしていた2024年1月1日、実家で被災しました。

被災後、埼玉県に戻ってからも、月に1回は両親が暮らす穴水町に帰省し、地元のために何ができるのかを考えながら生活しています。

7月1日は、震災からちょうど半年という節目にあたります。能登・穴水町の「そと」に住む私に何ができるのか ──。

震災からずっと考えてきた課題ではありますが、地元に住んでいないとしても、力になれることが自分なりにやっと分かってきました。

関連記事:「能登・穴水町に70代の親を残し、東京に戻った私にできること。正月帰省中に被災」

震災から6カ月が経過し、穴水町では、断水はおおむね解消しつつありますが、被災した住居の問題はほぼ手つかずのまま残されています。

壊れた自宅に住み続ける場合はどこまで家を修理するのか、再建する場合にはどこにどんな家を建てるのか……。私の実家もそうですが、穴水町甲地区には木造の大きな家が多く、何世代にもわたり使ってきた歴史があります。

家が大きいだけに、家具や日用品なども多く、被災後には車で20分以上かけて町営の災害ごみ広場まで何度も往復する必要がありました。

震災後の片付けの合間には、これからどこで暮らしてくのか、大切な決断をし続けなくてはいけません。家の被害状況に加えて、年齢や家族構成によっても判断は大きく変わります。平時であっても決めることが難しい問題を迫られ続ける高齢者の話を聞くと胸が詰まります。

私の実家は6月21日から公費解体が始まり、両親は5月、仮設住宅に移りました。

当初、両親は住み慣れた実家に暮らしたいという思いが強く、「この家は子供たちや孫たちが集まれる場所でもある。なんとかして家を残せないか」と複数のリフォーム会社にも相談してきました。

しかし、床が傾くなどの被害が出ており、一度更地にして同じ場所に、これまでよりも小ぶりな家を立てることを決断しました。

やっと決断した計画でしたが、6月になって計画の変更を迫られることになりました。

震災の影響で地盤沈下が起きており、大雨が降ると土地が浸水してしまい、同じ場所に家を立てることが難しいことがわかりました。

進んだと思ってもまた大きな壁にぶつかり途方に暮れる、そんな日々を過ごしています。