死体をトロッコに乗せて運び大きな穴に…植民地から召集された「日本赤十字社」従軍看護婦が明かす「地獄のような戦場」

AI要約

日本赤十字社の看護婦たちはアジア太平洋戦争に赤紙で召集され、朝鮮や台湾の看護婦も参加した。

彼らの過酷な体験や日本への貢献意識、選ばれた背景などが明らかになっている。

日赤救護班の朝鮮人看護婦たちは日本の「皇民化」教育を受け、日本への貢献を選んだ。

死体をトロッコに乗せて運び大きな穴に…植民地から召集された「日本赤十字社」従軍看護婦が明かす「地獄のような戦場」

前編『皇室と共に歩んだ“博愛精神”の「日本赤十字社」その看護婦は「赤紙」で召集され太平洋戦争で1120人が“戦死”した』から続く

 「日本赤十字社(日赤)」の看護婦たちは、アジア太平洋戦争では「赤紙」で召集されて戦場へ送られた。その中には、日本が植民地支配をしていた朝鮮と台湾の看護婦たちもいた。韓国人と台湾人の元従軍看護婦たちからは、戦場での驚くべき体験が語られた。

 朝鮮では「大韓帝国」時代の1906年に「大韓赤十字社」が創設された。1910年に日本が植民地支配を開始すると、それは「日本赤十字社朝鮮支部」となった。朝鮮における日赤は「愛国婦人会」と共に、「朝鮮総督府」による朝鮮人に対する同化政策に協力。日本国内で、国民統合に協力したのと同じ構造だ。

 「日赤救護班」は、朝鮮と台湾においても編成された。朝鮮が18班の488人、台湾では11班346人だった。

 朝鮮から戦場へ送られた日赤救護班の中で、最も過酷な体験をしたのはフィリピンのルソン島へ送られた「343救護班」。この班は看護婦3人と使丁だけが朝鮮人で、日本人看護婦のほとんどは朝鮮で育った人たちだった。この班にいた韓国人の潘姫静(パン・ヒジョン)さんと蔡然福(チェ・ヨンボク)さんから話を聞いた。

 「生まれたのは慶尚北道(キョンサンブクド)の田舎です。両班(ヤンバン)の家系でもあり、小作人たちを使うほどの家だったので、子どもの時に苦労したという事はありませんでした」と潘さんは言う。

 当時の朝鮮で、高等女学校へ朝鮮人が入学するのはかなり大変なことだったが、潘さんは大邱(テグ)にある朝鮮人だけの名門校「慶北高等女学校」へ通う。

 学校から日赤看護婦を出す事になり、潘さんは校長から「お前はクリスチャンだから看護婦になったらどうか」と勧められた。彼女は信仰心からもあったが、「日本人に負けたくない」という気持ちから志願する事を決めた。

 威鏡北道(ハムギョンブクド)の地主の家で生まれた蔡さんは、「女として人のためになる生き方をしたい」と思っていた。だが、女性が働く事が出来る職業は極めて限られていたため、日赤の看護婦を希望。「お母さんは『日赤の看護婦になれば勲章がもらえる』と喜んでくれたし、私もその時は名誉だと思いました」と語る。

 日本人の“軍国少女”と同じように、徹底した「皇民化」教育を受けた朝鮮人・台湾人女性にとって、「日赤看護婦」は日本へ“貢献”できる唯-の道だったのである。

 女学校を卒業した潘さんと蔡さんは、1939年4月から朝鮮内の「日赤看護婦養成所」へ通う。日本が米国・英国に宣戦布告したのは1941年12月8日。その前の10月に、2人は繰り上げて卒業させられていた。そして、年が明けた1月19日に召集令状が渡された。

 朝鮮で編成された日赤救護班の派遣先は、フィリピン・中国と内モンゴル東部の「蒙古」で、病院船勤務の人たちもいた。朝鮮で救護班へ入った朝鮮人は、合わせても10人くらいと潘さんは推測している。

 2人が所属した343救護班が朝鮮総督府へ挨拶に行くと、南次郎総督までもが出てきて訓示をした。そして副総督が出席しての壮行会が、大きな料亭で盛大に開かれた。総督府は植民地朝鮮からも、兵士だけでなく看護婦も戦場へ出す事を、極めて重要視していたのだ。

 1月21日の出発の日、京城(現在のソウル)駅前には見送りのためにたくさんの学生が動員されていた。「日の丸」の小旗と万歳の声に送られて、釜山へ向かう列車に乗った。経済的に恵まれて何の不自由もない生活をしてきた若き朝鮮人女性たちが、戦争という巨大な渦に飲み込まれていった。