皇室と共に歩んだ“博愛精神”の「日本赤十字社」その看護婦は「赤紙」で召集され太平洋戦争で1120人が“戦死”した

AI要約

日本を中心に戦争時の看護婦たちの苦難や日本赤十字社の歴史について描かれた記事。

日本赤十字社は皇室との強いつながりを持ち、戦争時の救護活動や国民統合の重要な役割を果たしてきた。

日本赤十字社は日本国内だけでなく国際的な活動も行っており、赤十字運動の歴史と結びついている。

皇室と共に歩んだ“博愛精神”の「日本赤十字社」その看護婦は「赤紙」で召集され太平洋戦争で1120人が“戦死”した

 1994年3月の台湾・台北市。日本の軍歌が宣伝カーから大音量で流れ、数十本もの「日の丸」が雨風になびく。それを先頭に、高齢者ばかり約3000人のデモ隊が、降りしきる雨の中を出発した。旧日本陸軍・海軍の戦闘帽を被った人が多い。

 彼らは、日本政府に補償を求める台湾人の旧日本軍の元軍人・軍属とその遺族だ。私はこのデモを見た時、たくさんの「日の丸」は日本への好意を示すものだと思った。だがそれは濡れた道路に敷き詰められ、デモ参加者によって次々と踏みつけられた。雨が降っていなければ、火をつける予定だったという。

 そうした激しい抗議行動をするデモ隊の中に、「日本赤十字社(日赤)」看護婦の濃紺の制服を着た女性たちの姿があった。「日本人」として戦場へ送られた台湾人の元日赤看護婦である。

 日赤は、日本のさまざまな時代の戦争の遂行に大きな役割を果たしてきた。とりわけアジア太平洋戦争で、「日赤戦時救護班」として戦場へ派遣された看護婦たちは壮絶な体験をした。

 その中には、日本が植民地支配をしていた朝鮮と台湾で召集された女性たちがいる。日本人看護婦からはほとんど語られることがない、極限状況の戦場で起きたおぞましい出来事を、韓国人と台湾人の元看護婦たちが語ってくれた。

 なお本稿では、法改正で「保健婦助産婦看護婦法」から「保健師助産師看護師法」へと名称が変更された2001年より前の女性看護師を「看護婦」としている。

 日赤は現在、全国に赤十字病院92、地域血液センター47を運営し、職員は約6万7400人という巨大組織になっている。また世界の赤十字社・赤新月社の中で唯一、大学・短大など19もの看護教育のための施設を持つ。そして日赤は、設立から今日にいたるまで、皇室と極めて密接な関係にある。

 敬宮(としのみや)愛子内親王は今年4月、日赤本社に常勤嘱託職員として入社。日赤を就職先に選んだ理由は、日赤の社会における役割の大きさを実感し、社会に直接的に貢献できる活動に魅力を感じたからだという。仕事の内容は、ボランティアに関する情報誌の編集などで、今年5月15日の「全国赤十字大会」では誘導係を務めたことがニュースになった。

 また日赤は現在、献血や寄付を呼び掛けるわけでもないイメージ広告をテレビ各局で流している。その費用は、合わせて約1億5000万円だという。愛子内親王の就職に合わせて、日赤のイメージアップを図ろうとしているのだろう。“地味”な存在の日赤に、社会の関心が向いている。

 現在の日赤の名誉総裁は雅子皇后。名誉副総裁には、皇族6人が名前を連ねている。年に1度開催される全国赤十字大会には、皇后と皇族らが出席してきた。そして日赤は、1952年制定の「日本赤十字社法」による認可法人という特異な組織だ。

 世界には191の国・地域に、赤十字社ないしは赤新月社がある。現在の「日赤救護班」は大規模災害時の救護活動をしているが、そもそも各国の赤十字社・赤新月社は、戦争での傷病兵を救護することを目的につくられた。

 1859年にスイスの実業家アンリ・デュナンは旅行中に、戦場に負傷者が放置されている悲惨な状況を見て救護に参加。それが、戦争時の傷病兵・捕虜・抑留者などの保護を目的とする1864年の「ジュネーブ条約(赤十字条約)」の調印へと発展した。

 では、日本の赤十字社はどのように生まれたのか。

 1877年2月に明治政府軍と鹿児島士族との「西南戦争」が起きた。その負傷者救護のために、その年の6月に「博愛社」が創設された。初代の総長には、小松宮彰仁親王が就任。明治天皇が1000円(現在の約2000万円)の寄付をしたり皇后が包帯を贈るなど、皇室がバックアップをした。このように日本での赤十字運動は、誕生の時から皇室との強いつながりを持った。

 日本政府は1886年にジュネーブ条約へ加入し、その翌年に博愛社は「日本赤十字社」へ改称。この条約への加入は、日本が“文明国”であることを国際的に示そうという思惑があった。1912年には皇后が、ワシントンでの「赤十字国際会議」に10万円(現在の約20億円)もの寄付をしている。

 「日赤は天皇・皇后の保護を受け、皇族を総裁とすること、社長、副社長の就任には勅許を得ること、陸海軍大臣に監督権をゆだね、活動にさいしては陸海軍の指図を受けるということ、下部機構は、府県市町村の行政組織に一致させて、本社の意向が直ちに地方へ行き渡るような中央集権的体制が徐々に確立されていった」(『日本赤十字の素顔』赤十字共同研究プロジェクト)

 日赤を支える個人社員(現在は会員)数は、1945年には約1500万にも達した。その時の人口は約7200万人だったので、何と加入率は約20パーセントにもなる。日本が戦争への道を進む中で、日赤は「挙国一致」のための国民統合の強力な装置となったのだ。