沖縄戦「南部撤退」で逃げ惑った住民「もうこれ以上逃げる所はない」…眼下の海岸に無数の死体

AI要約

沖縄戦は約20万人の犠牲者を出し、半数が最後の1か月に集中。南部撤退命令が引き金となった。

12歳の松茂良美智子さんは母と家族と共に糸満市米須で避難。砲撃を乗り越え、生き残るために必死に逃げ惑った。

激しい戦闘の中、多くの人が犠牲に。遅延行動を取りつつも、沖縄本島南部は悲劇の舞台となった。

 軍民入り乱れる地上戦となった79年前の沖縄戦は、犠牲者約20万人のうち住民が約9万4000人に上り、その半数が最後の1か月に集中した。引き金は、戦闘を指揮した旧日本陸軍第32軍司令部が本土への米軍の侵攻を遅らせるために下した「南部撤退」の決断だった。砲弾の中を南へ南へ逃げ惑った体験者の記憶をたどり、悲劇を生んだ撤退を語り継ぐ人たちを追った。

 「もう、これ以上逃げる所はなかった。いつ死んでもいいと思いました」

 13日、沖縄本島南端の糸満市米須。79年前に身を潜めた壕の近くで、松茂良美智子さん(91)(那覇市)が声を絞り出した。当時は12歳。眼下の海岸に無数の死体が積み上げられていた光景が忘れられない。

 米軍は1945年4月1日、本島中部の西海岸に上陸し、南北二手に分かれて進軍した。猛攻を受け、旧日本軍の戦線は後退。5月22日、首里城周辺の地下約10~30メートルに構築された第32軍司令部壕で、牛島満司令官らが南端の喜屋武半島で迎え撃つ持久戦に持ち込む「南部撤退」を決めた。

 その頃、松茂良さんは母と弟、義姉、その息子で乳児の嘉順ちゃんの5人で司令部壕の南西約1キロの壕に避難していたが、区長から「友軍が使用する」として退去を命じられた。

 艦砲射撃の暴風を縫って約7キロ南の高嶺村(現糸満市)の親族宅に近い小屋に身を寄せていた時だった。飛んできた砲弾の破片が隣に座っていた近所の少年の首に刺さり、命を奪った。

 その後は、集落内の壕を転々とした。最初の壕では爆弾が落ち、土砂の塊が義姉に抱かれた嘉順ちゃんの胸を直撃した。息苦しそうに顔をゆがめた甥は数日後に息絶えた。

 「避難しみそーれー(避難してください)!」。米軍に親を連れて行かれたという住民が泣き叫ぶ声が響いた。米軍に捕まったら殺される――。喜屋武半島へ道を急ぐと、何百人もの人々が列をなしていた。

 昼間は岩陰に隠れ、日が落ちると移動した。だが、艦砲射撃は昼夜を問わず、米軍機も照明弾を使って爆撃した。母に手を引かれ、腐敗して風船のように膨らんだ亡きがらにつまずきながら南端を目指した。