戦後初の国産旅客機「YS-11」がロールアウト式典1962で初披露【今日は何の日?7月11日】

AI要約

1962年7月11日、戦後初の国産旅客機「YS-11」が三菱小牧工場でロールアウトされた。

戦後GHQの制約を受けながらも、日本の航空機技術者が集結し、国産旅客機の開発に取り組んだ。

国産飛行機製造計画を通じて、戦前の技術者が再び航空機産業に貢献し、YS-11が誕生した。

戦後初の国産旅客機「YS-11」がロールアウト式典1962で初披露【今日は何の日?7月11日】

一年365日。毎日が何かの記念日である。本日7月11日は、戦後初の国産旅客機であり、50年以上日本の空を飛び回った「YS-11」のロールアウト式典(お披露目)が行われた日だ。YS-11は、戦前に軍用飛行機を製造していた三菱重工、川崎重工、富士重工などの優秀な航空機技術者が集結して作り上げた、戦後の航空事業の発展に大きく貢献した飛行機である。

TEXT:竹村 純(Jun TAKEMURA)

1962(昭和37)年7月11日、戦後初の国産旅客機「YS-11」の試作1号機が完成し、三菱小牧工場でロールアウト式典が行われた。開発したのは、1959年に創業した官民共同の「日本航空機製造」で、試作機を使って飛行実験や荷重実験を繰り返し、同年8月30日にはメディア関係者を招いて初の試験飛行が行われた。

第二次世界大戦で敗戦国となった日本は、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令本部)によって飛行機の製造・運用、さらに研究や教育なども禁止された。

戦前に高いレベルの技術力を持っていた軍用の航空機技術者の多くは、戦後になって自動車や鉄道製造部門で活躍した。例えば、プリンス自動車(後に日産自動車に吸収合併)の初代「スカイライン(1957年~)」などを開発したのはゼロ戦のエンジンを設計した中川良一氏、スバル(富士重工業)の名車「スバル360(1958年~)」などを開発した百瀬晋六氏、トヨタの「パブリカ(1961年~)」や「カローラ(1966年~)」の開発を担った長谷川龍雄氏、ホンダF1優勝の立役者でチーム監督だった中村良夫氏など、多くの航空機技術者が自動車産業の発展に多大な貢献を果たしたのだ。

そして、1952年サンフランシスコ講和条約が発効され、日本は正式に独立。これに合わせて航空法や製造事業法が施行され、日本の航空機産業が再開、ようやく日本も飛行機を作り出す環境が整った。

飛行機製造が解禁されるとすぐに、国産飛行機をもう一度大空に飛ばしたいという夢を抱いていた技術者は、1955年頃から通産省(経産省の前身)主導で国産旅客機製造計画に取り組んだ。この計画には、ゼロ戦を設計した堀越二郎氏(2013年にヒットした映画「風立ちぬ」の主人公のモデル)など戦前の軍用飛行機事業を支えた技術者が集結した。

そして、1959年に官民共同の特殊法人「飛行機製造会社」が創業し、開発のリーダーに選ばれたのは東條輝雄氏(戦時中の内閣総理大臣・東條英機の息子)。メンバーとして、戦前の飛行機製造を担った新三菱重工(現:三菱重工)、川崎航空機(現:川崎重工)、富士重工(現:スバル)などから優秀な技術者が集められ、戦後初の国産旅客機「YS-11」の基本設計がスタートしたのだ。