「われらは聖女を焼いたのだ」…ヨーロッパに500年のしこりを残した「悲劇のヒロイン」ジャンヌ・ダルクの最期

AI要約

ジャンヌ・ダルクの悲劇的な最期と裁判の経過について詳細に記されている。

異端審問から世俗の裁判へと連なる処刑の過程が周到に示されている。

ジャンヌの処刑は慎重に準備され、イングランド軍の復讐として行われた。

「われらは聖女を焼いたのだ」…ヨーロッパに500年のしこりを残した「悲劇のヒロイン」ジャンヌ・ダルクの最期

啓蒙主義と人権思想を生んだヨーロッパの「光」の歴史の裏には、異端審問や魔女裁判の名のもとに、拷問や処刑を通して数多の人間を血祭りにあげてきた陰惨たる「闇」の系譜があった。そんな非人間的な権力装置の作動をリアルに見つめる『拷問と処刑の西洋史』の著者・浜本隆志氏が明かす、ジャンヌ・ダルクの最期とヨーロッパ世界に残った500年のしこり――。

フスの処刑から16年後の1431年には、フランスのジャンヌ・ダルクが「政治的策略」のため、無実のまま火刑にされた。

かの女は百年戦争(1337-1453)時に、天使ミカエルや聖人のお告げに導かれながら、男装の騎士の姿で自軍を鼓舞し、イングランド軍に包囲されたオルレアンを解放(1429)した。しかし純真無垢な救国主は、イングランド軍に捕らえられ、異端として処刑されて悲劇のヒロインとなる。この出来事は、たびたび映画や文学の題材にもなり、歴史的に有名である。

ジャンヌの裁判は紛糾し、悪魔と密通した妖術使いの嫌疑がかけられたけれども、産婆の調査の結果、処女と証明された。したがって悪魔との密通は否定され、異端の罪のみが問われた。

かの女がいったん罪を認め懺悔をしたので、一生のあいだ牢獄のなかでパンと水のみの贖罪生活をすべしという判決が下った。しかしジャンヌは、看守の暴行の危険にさらされながら、牢獄でみじめな一生を終えることを拒否した。悔悛を撤回したかの女は、「戻り異端」として断罪された。

このように紆余曲折があるが、ジャンヌの場合には詳細な裁判記録が残されており、追跡調査をすることが可能である。

これを見て、周到であると思うのは、宗教裁判から世俗の裁判へという形式上の手続きを踏んで処刑していることである。物議をかもした男装用衣服の着用は、看守やイングランド兵士から身を守るためと推定されるが、それを非難の口実にするという卑劣な手口も使われている。

まず、1431年5月29日の判決は以下のようであった。

「主の名においてアーメン。……神の思し召しによってボーヴェーの司教になったピエール、ならびに修道士ジャン・ル・メトール──優秀な異端審問官の修道士ジャン・グラヴラン博士の代理人で裁判受託者──は、俗称「処女ジャンヌ」、汝を背教者、偶像崇拝者、悪魔と結託した者として宣告する。教会は回心したものに門戸を閉じるようなことを決してすることはないがゆえに、汝が本当に汝の誤謬や罪を改め、過日、公の面前で悔い改めたことを撤回せず、後戻りをしないことをわれわれ判事の前で宣誓したとき、われわれは回心を確信していた。

然るに汝は、汝を誘惑するためにこころのなかに侵入してきた、あらゆる背教と異教の首謀者のそそのかしによって、後戻りをしてしまった。ああ何と嘆かわしいことか。……汝は誠実で正統な志操をもつ代わりに、偽りのこころによってまやかしの作り事を口先だけで誓ったのである。それがもっとも明白な判決を証明するものとなる。したがってわれわれは、汝が以前の誤謬と異教へ後戻りをしたことにより、あらためて汝は異端に陥ったものと宣告する。この判決によって、われわれは汝ならびに札付きの仲間が他の教会組織に悪を伝播せぬように、教会の統一組織から排除し、それから切り離すこと、および汝を世俗の手に委ねることを宣告する。われわれは世俗の裁判所が死刑に処したり肢体の切断をしたりすることなく、汝に適切な判決を下すよう要請する。もし真の悔悟の兆候が汝に明らかになれば、汝にサクラメント(秘蹟)が授けられることになる」(J・ディルンベック『異端審問』)。

フスの場合と同様に、初期の異端審問はふつう宗教裁判をへて、破門の宣言を下し、世俗の裁判の最終判決に委ねた。聖職者がみずからの手を血で染めるのを避けるための手順である。

判決は一見すると温情があるようにみえるが、宗教裁判において破門し、異端と認定することは、世俗裁判所では死刑を意味するものであった。これはカトリック側が最終的な判決を世俗の裁判所に委ね、責任を取らせるための常套手段であり、ここからも周到な権力装置のメカニズムが読み取れる。

事実、ジャンヌの処刑はすでに事前に準備されており、判決後、火刑に処せられることになった。それはイングランド軍の意向であり、かの女の愛国的な活躍に対する復讐であったといえる。当時の処刑前のしきたりにしたがって、処刑当日の5月30日の早朝、ドミニコ会士マルタン゠ラヴェニュらが宗門裁判の結果通告と、最後のキリスト教の儀式を施した。