「屋外での水泳」を描いた東西の芸術作品が赤裸々に語る裸体と性とジェンダー 日本の錦絵も読み解かれる

AI要約

海や川や湖での水遊びを描いた絵画や写真には、裸体の問題や性的な体験、犯罪などがテーマとして表現されている。

過去の作品では裸体が普遍的な要素であり、中世・近世の西ヨーロッパでも裸になることは生活の一部だった。

例えば日本の画家楊洲周延の作品「東錦昼夜競」では、水練における性犯罪を描写し、性犯罪が水辺で多く発生する可能性を示唆している。

「屋外での水泳」を描いた東西の芸術作品が赤裸々に語る裸体と性とジェンダー 日本の錦絵も読み解かれる

北半球は夏本番、海や川や湖で人々が水遊びする光景を各地で目にすることだろう。そうした光景は現代ならインスタグラムなどでシェアされるが、長らくは絵画やフィルム写真で表現されてきた。それらの芸術作品に反映されたさまざまな「眼差し」を、美術史の専門家が読み解く。

昔の絵画または写真で、海や川や湖などに入っている人を捉えたものがあるとする。そこには何が見えるだろうか。

まず十中八九、誰かがそこで泳いだり、水浴びしたりしているだろう。しかしよくよく見てみるとこうしたイメージは、その社会の人体に対する見方、西洋や「新世界」に対する認識、政治的な優位性など多くを語っているかもしれない。

手始めに、裸体の問題がある。芸術家は人体をどれくらい、また何のために露出させたいかを決める必要があるからだ。

人前で半裸や全裸になるのは現代的な現象だとわれわれは考えがちだが、中世・近世の西ヨーロッパでは生活の一部だったという証拠がある。

たとえば、中世後期の『べリー公のいとも美しき時禱書』に出てくる以下のシーンでは、貴族らが川のそばを馬に乗って通り過ぎているが、川で泳いだり身を清めたりしている全裸の人らには目もくれていない。

水辺では人が裸になり無防備になることから、性的な体験や犯罪が多くの芸術作品でテーマとなっている。

その一例が、日本人画家の楊洲周延(ようしゅうちかのぶ、1838~1912年)による錦絵シリーズ「東錦昼夜競(あずまにしきちゅうやくらべ)」(1886年)の「岡崎水練」だ。於愛の方(おあいのかた、徳川家康の側室になった女性)が水練中に襲ってきた男を撃退する様が描かれている。

興味深いことに、この女よりもふんどし一丁の男のほうが肌の露出度が高い。女の身体は下着で覆われており、もみ合った末なのか胸だけが出ている。

女は右手を伸ばして、木の枝をつかもうとしている。この木は、乾いた安全地帯を象徴している。そこには彼女の着物だけでなく、暴漢の行動を制限する確立した規則や法律も待っているのだ。淡い青色の澄んだ水は、性犯罪が陸上よりもたやすく隠蔽されうる空間だという漠然とした意味を帯びている。