プーチンの2度の訪朝、2000年には「朝米仲裁」、今年は「反米連帯」(1)

AI要約

2000年に訪朝したプーチン大統領は、当時の国際情勢やMD問題について北朝鮮と協力し、米国のMD計画に対抗した。

韓国と北朝鮮の対立や南北首脳会談、朝米関係の展開もプーチン大統領の平壌訪問に影響を与えた。

プーチン大統領の行動は、当時のMD問題や朝米関係に新たな展望をもたらしたが、後に米国の政権交代が影響を及ぼす結果となった。

プーチンの2度の訪朝、2000年には「朝米仲裁」、今年は「反米連帯」(1)

 1948年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府樹立以後、これまで平壌(ピョンヤン)を最も多く訪れた外国首脳は誰だろうか。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領だ。プーチン大統領は2000年7月には旧ソ連を含むロシアの首脳として初めて平壌を訪問し、今年6月にも平壌を訪れた。24年をまたいで行われたプーチン大統領の平壌訪問を比較すると、朝鮮半島を含む国際情勢がどれほど変わったのか実感できる。

 まず、米国とロシアが全面的な対決を繰り広げている今日ほどではないが、2000年にも両国間には戦略的対立があった。当時、米国のビル・クリントン政権は、共和党と軍産複合体の強い圧迫を受け、ミサイル防衛体制(MD)を進めようとした。そのためには、1972年に米国とソ連が締結した弾道ミサイル防衛(ABM)条約の改正が必要だった。ABM条約が事実上MDを禁止していたからだ。そのため、クリントン大統領はプーチン大統領の同意を求めようとした。しかし、MDが米ロ間の戦略的均衡を崩し、すでに東進を重ねていた北大西洋条約機構(NATO)の拡大をもたらすと判断したプーチン大統領はこれに同意しなかった。これによってMD問題は2000年代初め、国際情勢の最も「厄介な問題」に浮上した。

 NATOの主要加盟国の態度も比較してみる必要がある。1990年代後半以来続いてきたNATOの東進と2014年のロシアのクリミア半島併合以後、岐路に立っていたNATOとロシアの関係は、2022年のロシアの不法なウクライナ侵攻を経て当分「帰らざる橋」を渡った。ロシアを「共同の敵」と規定した米国および欧州のNATO加盟国は、強力な結束力を誇示しながらロシアを弱小国化しようとしており、ロシアは反米・反西欧を掲げている。

 しかし、2000年の風景は今とは大きく違っていた。欧州連合(EU)のハビエル・ソラナ共通外交・安全保障政策上級代表は「もし米国がMD配備を最後まで固執するならば、国際社会は米国の傲慢な一方主義に失望することになるだろう」と述べ、米国を強く批判した。ドイツのヨシュカ・フィッシャー外相も「この問題は米国とロシアに衝突をもたらす重大な事案」であり、「米国一国の決定で国際社会は途方もない影響を受けることになるだろう」と強調した。フランス政府も「MDの必要性に疑念を持っており、EUの多数の国家も同じだ」という立場を示した。北米大陸にあるカナダもこうした立場に同調していた。

 韓国と北朝鮮の動きも大きく異なる。今日のウクライナ戦争は、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権にとっては「価値観連帯」を標榜した「親米主義」を、金正恩(キム・ジョンウン)政権にとっては「国際秩序の多極化」を掲げた「反米主義」を消費する舞台として活用されている。ユーラシアの東端にある韓国と北朝鮮が、ユーラシアの反対側で繰り広げられている戦争の主要な兵器供給先とみなされるほどだ。しかし、2000年には大きく違っていた。金大中(キム・デジュン)政権は「朝鮮半島冷戦構造の解体」を目標に朝米関係の仲裁と促進に積極的に乗り出す一方、史上初の南北首脳会談も実現させた。南北対話と朝米対話が好循環を描き、金正日政権も約50年間続いた敵対的な朝米関係に終止符を打てるかもしれないという期待に胸を膨らませていた。

 ところが、伏兵がいた。MDがまさにそれだ。当時、米国は一方では金大中政権の朝鮮半島平和プロセスを支持しながらも、他方では韓国をMDへの抱き込みの対象にし、北朝鮮をその口実にしようとした。MD推進の名目として中国やロシアを掲げることができなかった米国にとって、「北朝鮮脅威論」の活用価値は非常に大きく、朝中ロに最も近い韓国はMDの最適の同盟国とみなされた。しかし、これは両立できないものだった。金大中政権がMDへの参加を求める米国の要求を拒否し、平和プロセスに拍車をかけたことからも分かる。

 まさにその時、プーチン大統領が平壌を訪れた。実に絶妙なタイミングだった。プーチン大統領は2000年6月上旬にモスクワを訪問したクリントン大統領のABM条約の改正要求を断った。6月中旬に南北首脳会談が開かれ、米国で猛威を振るった「北朝鮮脅威論」の勢いが大きく衰えた。すると、ロシア政府はプーチン大統領のアジア歴訪の日程を公表した。プーチン大統領は7月17~19日の北京訪問で、中国の江沢民主席と首脳会談を行い、「米国のMDに反対する」という共同声明を発表した。7月21~23日には沖縄でG8首脳会談が予定されていたが、プーチン大統領も出席するこの会議の最大議題がまさにABM条約およびMD問題だった。そして、沖縄に先立ち平壌を訪れ、金正日総書記に会った。

 プーチン大統領は首脳会談後の記者会見で、「他国に衛星打ち上げを支援してもらえるなら、長距離ミサイル開発の放棄も考えられる」という金正日総書記の発言を公開した。これについて海外メディアは「米国のMDにブレーキをかけようとするプーチン大統領が直ちにこのチャンスをつかんだ」と評した。米国は朝鮮のミサイル脅威を口実にMDを構築しようとしたが、金正日総書記とプーチン大統領がその出端を挫いたのだ。これに自信を得たプーチン大統領は、G8をABM条約の死守およびMD反対の舞台として活用した。前述したように、米国の多くの同盟国もロシアと意見を共にした。その結果、米国も同意したG8共同声明には「戦略的安定の礎石であり戦略攻撃兵器削減の基礎であるABM条約を保存し強化する」という条項が含まれた。

 困惑したクリントン政権は、約1カ月後にMDを留保すると発表し、朝米ハイレベル会談に向け本格的に動き始めた。これにより、朝米両政権のナンバー2たちがワシントンと平壌を行き来し、クリントン大統領も訪朝を約束した。南北首脳会談に続き、朝米首脳会談も可視圏に入り「冷戦の孤島」と呼ばれた朝鮮半島にも脱冷戦が訪れるかのように見えた。しかし、11月の米大統領選挙でMDに死活をかけた共和党のジョージ・W・ブッシュ候補が当選したことで、すべてが水の泡となった。ブッシュ次期大統領陣営は、MDに支障を来たす恐れがあるとして、クリントン大統領の訪朝に反対しており、就任直後には朝米会談の「有望な要素」を蹴飛ばし、北朝鮮のミサイル脅威を口実にMDの構築を宣言した。これに対する国際的な批判世論が沸騰する時に発生した9・11同時多発テロをABM条約脱退の口実にした。

(2に続く)

チョン・ウクシク|ハンギョレ平和研究所所長(お問い合わせ japan@hani.co.kr )