パリで咲いたレスリング初メダル 100年ぶりのパリ五輪(下)

AI要約

内藤克俊は、1924年のパリ五輪で日本勢唯一のメダルを獲得したレスリング選手。

苦労しながらもメダルを獲得し、世情の中でスポーツの力を説いた内藤は、後にブラジルで柔道の普及に貢献した。

柔道からレスリングで歴史を刻み、再び柔道に戻り、ブラジルで活躍した内藤の功績は、未だに輝いている。

パリで咲いたレスリング初メダル 100年ぶりのパリ五輪(下)

 花の都に聖火がともったのは、ちょうど100年前。

 1924年パリ五輪が開催された当時の日本は「大正ロマン」と呼ばれる大衆文化が花開いた頃合いだ。そんな時、歴史的なメダルが生まれた。日本勢の五輪銅メダル1号で、レスリングでは初のメダル。内藤克俊の手によってもたらされた。

 広島県出身。もともとは柔道で活躍していたが、留学先の米ペンシルベニア州立大に柔道チームがなく、レスリング部の門をたたいた。同じ格闘技として技を研究。主将も務めるまでとなり、当時の大日本体育協会が刊行した報告書によると、駐米日本大使の推薦でパリ五輪の日本選手団に加わることになった。29歳の時だった。

 実に日本レスリング協会が設立される8年前のこと。苦労は絶えず、渡航する船の中での練習中に左手人さし指を負傷した。大会中も各所を痛め、首に湿布を貼って寝るほどだった。

 身長170センチで、計量に苦しみながらも当時のフェザー級で出場した。グレコローマンで敗退した後のフリースタイルで3位決定戦に進出。投げ技を駆使してスウェーデン選手を破った。報告書に「月桂冠(優勝)を奪われたのは申し訳ない。しかし世界の選手を相手に好個の経験を獲得でき、希望と抱負で元気づけられた」と記している。

 この大会の日本勢唯一のメダルには、世情への憂いも詰まった。米国では、日本人を含めた移民の排斥機運が高まっていた時代。五輪後「スポーツを通して時勢の声を傾聴すると、新しい生命が生まれてくるような感がする」と論じ、互いが友好的に向き合うことの貴さを説いた。

 その後はブラジルに移住し、柔道の普及と発展に貢献した。サンパウロ州柔道連盟会長を務めた長男克寛さんと親しかった日系1世の石井千秋さん(82)によると、内藤はサンパウロ郊外のスザノ市で、地元民の協力も得て250畳ほどの柔道場を開いていたという。

 石井さんは「好きだったという柔道が五輪になかった時代。レスリングに力を尽くし、その道を開いた」と敬意を込める。自身は72年ミュンヘン五輪の柔道で、ブラジル勢初のメダルとなる銅を獲得。今も内藤父子のおかげと感謝する。

 柔道からレスリングで歴史を刻み、再び柔道へ回帰。加えて米国で排斥運動に直面し、ブラジルでは柔道や産業の発展に尽力した。69年に没するまで描いた軌跡は、今もまばゆい。