パラバドミントン・梶原大暉 国際大会121連勝中…最強支える原動力は「諦めない心」

AI要約

車いすバドミントンの金メダリスト、梶原大暉選手の強さと過去の苦難を紹介。

交通事故で右脚を失うも、周囲のサポートで前向きに復帰へ。

野球からバドミントンへ転向し、新たな道で輝く梶原選手。

パラバドミントン・梶原大暉 国際大会121連勝中…最強支える原動力は「諦めない心」

 28日にパラリンピックが開幕します。そこで注目したいのが、東京パラリンピックで金メダルを取った、車いすバドミントンの梶原大暉選手(22)です。

 梶原選手は、強さを発揮するうえで大事にしていることがあります。

梶原選手

「絶対に妥協しない。何があっても諦めない。がむしゃらに泥臭くいくというのは、すごく大事にしています」

 梶原選手が戦う車いすクラスのシングルスで使うコートの広さは、通常の半分以下ですが、車いすを常に動かさなくてはいけません。

 そんなパラバドミントンで、今や絶対的な強さを誇る梶原選手。しかし、その強さは壮絶な過去を乗り越えて得たものでした。

 梶原選手の人生が大きく変わったのは、中学2年の時。当時の夢はプロ野球選手でした。強豪チームのエース候補として期待されていましたが、全国大会の前日のことでした。

梶原選手

「気づいたらトラックの下にいたっていうのは覚えています。両親が『次の日までもたないかもしれません』『覚悟しておいてください』みたいなことをお医者さんに言われたって言ってたので」

 練習に向かう途中、グラウンドの目の前で交通事故に遭いました。一命はとりとめたものの、右脚の太ももから下を切断せざるをえませんでした。

梶原選手

「まずは“野球ができなくなった”という。生きていくっていうより、野球ができないことが考えられなくて。頭が真っ白というか、『野球ができないのか…。野球できないの?』みたいな。絶望じゃないですけど」

 そんな絶望から、一体どのように前を向いていったのでしょうか?

梶原選手

「野球のチームメート、先輩、コーチ、監督がしょっちゅうお見舞いに来てくれて。『野球ができなくなって残念だったね』ではなく、『復帰したらこれをやろう』『復帰するの待ってるよ』とか、未来の話をしてくれたので、前向きになるきっかけになりました」

 7カ月半にも及んだ入院生活。過酷なリハビリも前向きに励み、座ることさえできない状態から、徐々に歩けるところまで回復しました。

 スコアラーとしてチームに戻ることもできました。しかし、選手としての復帰は難しい現実。大きな葛藤があったといいます。

梶原選手

「野球に関わるか、スポーツをするか、すごく悩みました。元気にスポーツをしている姿を見せるのが、支えてもらった方々への恩返しになるかなと思って、スポーツするほうを選びました」

松岡修造さん

「なんでバドミントンになったんでしょう」

梶原選手

「自宅の近くの体育館でパラバドミントンチームが活動していて。最初はチェアワークに一目惚れして。『人間の動きなのか?これは』と衝撃を受けて、『これにしよう』と思った」

 こうして、梶原選手は夢だった野球に代わり、新たな道で輝くことを選びました。