【悼む】応対淡泊でもドライな人ではなかった川村師 馬を愛し感謝した調教師人生/岡本光男記者
JRA川村禎彦調教師が病気のため死去したことが発表された。
川村禎彦調教師の調教スタイルや馬主への配慮、馬への愛情が取材されている。
厩舎の方針や活躍馬のエピソードなど、川村厩舎の特徴が述べられている。
JRA川村禎彦調教師が10日に病気のため死去した。66歳だった。日本調教師会関西本部が14日、JRAを通して発表した。
長きにわたり取材してきた岡本光男記者が悼む。
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川村厩舎は調教が独特なことで知られた。最終追い切りは15-15(1ハロンを15秒で走る)程度の軽めで済ませ、いっぱいに追うことはあまりなかった。この程度の追い切りで大丈夫なのだろうか…と、疑問に思ったファンも多いだろう。
記者は川村師に聞いたことがある。なぜ、強い追い切りをしないのかと。「追い切りは軽いけど、普段のキャンターは長めでしっかりと乗って、ベースは作っている」というのが答えだった。
さらに、その先にも理由があった。開業当初から厩舎に所属した中川修調教助手は「うちの調教師は調教で馬を疲れさせたり、壊したりすることを嫌がった。それよりもレースを使って仕上げていけばいいという発想だった」と話す。最も重視したのは「馬主に損をさせないこと」。あまり高額な馬を求めず、手頃な価格の馬を多く出走させて賞金を稼ぐことに重きを置いていた。
かつてフェブアクティヴという馬が、秋の京都開催8週すべてに出走したこともあった。いわば8連闘だが、5連闘目に5着、7連闘目に4着に好走した。賛否はあったようだが、しっかりと賞金を稼いだ。このような方針だっただけに、クラシックやG1に参戦することはあまり多くなかったが、馬主や厩舎スタッフは潤った。
取材陣への応対はどちらかといえば淡泊で、あまり本音は聞けなかった。だが、ドライな人ではなかった。ある日、02年白山大賞典や04年マーキュリーCを勝つなど開業当初に活躍したスナークレイアースについて取材した時、師は突然、おえつした。
「厩舎の経営が苦しい時に、あの馬に支えてもらった」
馬を愛し、馬に感謝した調教師人生だった。【中央競馬担当・岡本光男】