「身長伸びすぎて病院に…」男子バレー“204cm”山内晶大の母が語る、スポーツと無縁の息子の運命を変えた電話「お母さん、学校に来てください」

AI要約

山内晶大はバレーボール男子日本代表のミドルブロッカーとして活躍し、パリ五輪で難敵ドイツに敗れるも、大接戦で流れを手繰り寄せた。

手足を使った高い打点から放つスパイクを武器に、30歳の山内晶大は11年目のプレー歴を持つ。

山内晶大の母である純子さんは、息子のバレーボール人生を信じて10年間を見守り、応援し続けてきた。

「身長伸びすぎて病院に…」男子バレー“204cm”山内晶大の母が語る、スポーツと無縁の息子の運命を変えた電話「お母さん、学校に来てください」

 パリ五輪・予選リーグ初戦で難敵ドイツに敗れたバレーボール男子日本代表。まさかの黒星スタートとなったが、フルセットまでもつれた大接戦で何度も試合の流れを手繰り寄せたのがミドルブロッカーだった。絶対負けられない次戦を前に、男子バレーの進化を象徴する“2mトリオ”の原点に迫る。本稿では、山内晶大の母・純子さんを取材した。《NumberWebノンフィクション全6回の3回目/第1~2回小野寺太志編は公開中》

 2度目の五輪出場を果たした山内晶大は、パリ五輪に出場するミドルブロッカー3人の中で最年長の30歳だ。204cmの身長と、長い手足を存分に使った、高い打点から放つスパイクを武器に、日本代表でのプレー歴は早いもので今年で11年目を迎えている。

 バレーボールに精通した人ならば、もうそんなに経つのかと感慨深い思いを抱くかもしれない。

 だが、その当時「この選手が10年後も日本代表でプレーし、しかも2回も五輪に出る」と言っても、信じる人はほとんどいなかっただろう。何しろ当時のバレー歴はわずか5年。前稿で紹介した同じ日本代表ミドルブロッカーの小野寺太志と同様に、山内も高校からバレーボールを始めた。いわば素人同然の選手がこれほど長く日本代表の主軸で活躍できるなんて、何の夢物語か。

 周りで見ていた人以上に、信じられない思いでこの10年を見続け、応援し続けてきた人がいる。母の純子さんだ。

 息子と同じくスラリと背が高い。中学、高校までバレーボール部で県大会にも出場していた純子さんが、待望の長男を出産したのは1993年。もちろんと言うべきか。息子は当時から群を抜いて大きかった。

「体重は4300gで身長は55cm。初めての子だったから、私自身はどのぐらいの大きさか、標準がわからなかったんですけど、同じ日に産まれた女の子と比べたら、圧倒的に大きかったです(笑)」

 産まれた時のまま、健やかに、大きく育ちますようにと願いを込めて「晶大(あきひろ)」と名付けた。その名に違わず、むしろ「想像より大きくなっちゃった」という息子の性格は、おとなしく、穏やか。周囲の子どもたちとはもちろん、6歳下の弟とケンカをした記憶もない。周りと並べば常に頭ひとつ飛び抜けて大きかったが、目立つのは嫌いで、人の前に出たり先頭に立って何かを決めるのは苦手だった。

 そんな息子が初めてスポーツに触れる。きっかけは、小学4年生から始まるクラブ活動だった。

 父はサッカー、母は前述の通りバレーボール。両親は共にスポーツ経験があったが、だからといって、特定の競技を強制することはなかった。興味があるものを選べばいいと見守っていた。

 クラブ活動の種類が限られていたため、晶大少年の選択肢は、野球かサッカーかバスケットボールの3つ。純子さん曰く「どちらかと言えば小さいボールを扱うほうが苦手だった」こともあり、バスケットボールを選んだ。

 バレーボールと同様に、高さが武器となるバスケットボールで頭ひとつ大きい晶大の存在はさぞ目立っただろうと思いきや、実際は全く逆。幼い頃からケンカもせず育ってきたことを象徴するように、人とぶつかり合うことは好きではない。背は大きいけれど身体の線も細く、純子さんは「この子はスポーツとは無縁に育っていくのだろう」と思ったほど。

「小学生でバスケットボールを始めた頃は、そのままバスケットを続けるのはもちろん、まさかバレーボール選手になるなんて全然思ってもいなかったから、むしろ身長が伸び続けていることのほうが心配だったんです。将来のことを考えたら、ある程度のところで止まってほしいと思って、病院に連れて行ったこともありました」