「日本はプロセスを大切にしすぎる」 英独仏の3か国語を習得、欧州生活13年で培った海外を生き抜く術――サッカー・熊谷紗希

AI要約

なでしこジャパン主将・熊谷紗希の海外挑戦の経験とそれから得られた価値に迫る。

熊谷紗希が高校生の時に外国での滞在をきっかけに海外挑戦を夢見るようになり、ドイツ、フランス、イタリアでのプレーを経て今日に至る。

海外挑戦の決断から得られた価値や次代へのメッセージを探る熱いインタビュー。

「日本はプロセスを大切にしすぎる」 英独仏の3か国語を習得、欧州生活13年で培った海外を生き抜く術――サッカー・熊谷紗希

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 “選択”の連続であるアスリートのキャリア。オリンピック選手もいくつもの決断を経て、夢の舞台に立っている。その選択と挑戦から得た経験は、次代を担う中高生はもちろん、一般社会に生きる私たちにとっても価値があるものだ。今大会に出場しているサッカー女子日本代表のなでしこジャパン主将・熊谷紗希は20歳でドイツに渡って移籍も経験し、以降13年間、欧州3か国4クラブでプレー。挑戦を続けた海外生活から学んだこととは。(取材・文=金 明昱)

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 熊谷紗希は今夏、海外生活13年目のシーズンを戦い終えた。2011年7月のドイツ女子ワールドカップ(W杯)終了後、2年半在籍した浦和レッズレディースからフランクフルト(ドイツ)に移籍し、海外挑戦をスタート。その後リヨン(フランス)、バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)でプレーし、23年から現在のASローマ(イタリア)に在籍している。

 海外を意識したのは高校生の時だったという。

「アメリカで行われる大会に、サッカー部で出場することになったんです。そこで現地ファミリーの家に1週間ほど滞在して、外国人の家族と初めて触れ合ったのがきっかけ。もっと英語を話せるようになったら、コミュニケーションが取れるのにとも感じたし、自分の知らない世界がたくさんあるということも知りました」

 多くの刺激を受けたものの、当時はまだ日本の女子サッカー選手が海外でプレーすることを思い描きにくい時代だ。

「当時は澤(穂希)さんがアメリカでプレーしていましたが、女子代表選手の多くが海外に出ることは珍しかった。いつか海外でやってみたいなと、漠然と思うくらいでした」

 浦和レッズレディースに加入した2009年に筑波大学に入学。そして翌10年、大学2年時に転機が訪れる。

「当時、日本サッカー協会が海外に出たい選手をサポートしてくれていたのですが、とりあえず、海外クラブチームの練習に参加してみないかと言われて、練習参加くらいならいいかなと思って向かいました」

 向かった先は、ドイツ・フランクフルトが合宿を行っていたトルコだった。すべてが初めての経験だったが、練習に参加し「これはいけるなと思った」と振り返る。

「私もここで戦える、通用すると感じました。ただドイツ語も英語も喋れない(笑)。英語なんて小学校から大学まで少し学んだ程度なので、少し話せるくらいでしたけれど、チームメートはすごくいい人たちばかり。何より、その10日間がすごく楽しかった」

 この時のプレーがチーム関係者の目に留まった。2010年のなでしこリーグ(日本女子サッカーリーグ)のシーズンを終え、「冬からでも来てほしい」と声がかかったほどだ。しかし、当時は大学に在籍中ということもあり、簡単には決断できなかった。

「(11年)W杯の半年前ということもあり、大会が終わってからにしてほしいと伝えたんです。ただ、事前にオファーはいただいていたので、W杯前にはサインをして行くことを決断しました。決め手は“やっていける”という手応えがあったから。あとは若かったので、ダメなら帰ってこようという気持ちもありました」

 若さゆえの勢いもあるが、しっかりと実力が認められ、チャンスをものにしたわけだ。挑戦する以外に選択肢はなかったに違いない。