クーベルタン男爵の光と影 表に出ない「近代五輪の父」―花の都、熱狂間近・パリ五輪(中)

AI要約

ピエール・ド・クーベルタン男爵の功績と女性の五輪参加の歴史について。

クーベルタン男爵の反対姿勢やその時代背景、そして現代のジェンダー平等への取り組み。

五輪の理念とクーベルタン男爵の遺産、家族の言葉に見る平和への願い。

クーベルタン男爵の光と影 表に出ない「近代五輪の父」―花の都、熱狂間近・パリ五輪(中)

 近代五輪の創始者、ピエール・ド・クーベルタン男爵の出身地パリに五輪が100年ぶりに戻る。

 男爵はスポーツを通じた連帯と平和を願い、五輪を復興させた功績が評価されながら、大会組織委員会は表立って取り上げていない。背景には、女性の五輪参加を否定していた考え方への批判がある。

 クーベルタンは1863年生まれの教育学者。1894年6月、パリのソルボンヌ大で五輪再興を提唱し、開催する組織として国際オリンピック委員会(IOC)の設立を決めた。第2代IOC会長を30年務め、世界五大陸の団結を表す五輪マークも考案した。

 「近代五輪の父」は、女性の参加に反対し続けていた。「女性のオリンピアードは興味を引くものではなく、美的でもない」「女性の主たる役割は、男性の勝者に冠を授けることだ」。これらの彼の言葉は、現代とは大きく異なる当時の社会通念を反映している。

 1896年第1回アテネ大会は「女人禁制」。1900年第2回パリ大会で初めて女性が出場したが、テニスなどごく一部の競技に限られ、選手約1000人のうち女性は約20人だけだった。それから124年。パリ五輪は選手数が史上初めて男女同数になり、組織委はジェンダー平等を前面に押し出している。

 クーベルタンは、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーがプロパガンダに利用した1936年ベルリン五輪を称賛したことも指摘されている。IOCのバッハ会長は6月にソルボンヌ大で開かれた男爵の記念式典で、「全ての人間は、その時代背景においてのみ評価される権利がある」と擁護。「彼の遺産を未来に引き継ぐことを誇りに思える」と敬意を示した。

 クーベルタンの子孫で家族協会会長のアレクサンドラ・ド・ナバセルさんは「ナショナリズムと緊張が顕著だった当時、彼はスポーツが人々を一つにし、協力を促すことができると確信していた」と語る。国境を越えて互いを尊重し、平和な世界を実現する五輪の理念は、世代を超えて受け継がれている。