「藤原道長の墓はどこですか」 大河「光る君へ」で参拝者続々、でも本当の場所はそこじゃない?

AI要約

宇治市の藤原氏に関係する陵墓群「宇治陵」が注目を集めており、藤原道長の墓についての謎が話題になっている。

宇治陵は古墳時代から藤原一門の埋葬地とされ、現在は37ブロックに分かれているが、特定されていない。

道長の墓については諸説あるが、周辺の遺跡や史料を踏まえると木幡小の東側にあった可能性が高いと言われている。

「藤原道長の墓はどこですか」 大河「光る君へ」で参拝者続々、でも本当の場所はそこじゃない?

 紫式部の生涯を描くNHK大河ドラマ「光る君へ」の放送を受け、京都府宇治市の藤原氏に関係する皇族の陵墓群「宇治陵」がにわかに脚光を浴びている。主要な登場人物である藤原道長の墓が含まれているという説があり、参拝する人も。ただ、本格的な発掘調査がされていないため、全容は謎に包まれたままだ。果たして道長はどこに眠っているのか。

 JR木幡駅の東側から南に向かって歩くと、すぐに樹木に囲まれた一画が現れる。宇治陵の1号陵。宮内庁が管理事務所を置き、近辺の丘に点在する宇治陵全体の総拝所としている。

 入り口には、藤原一門の墓所がある区域を示す「藤原氏塋(えい)域」と記された小さな石碑が建つ。大河ドラマに登場した兼家や道隆、頼通らとともに、道長の名が刻まれている。

 「道長の墓はどこにあるのですか」。ドラマの開始後、宇治市役所にはこうした問い合わせがたびたび来るようになったという。交流サイト(SNS)にも「宇治陵に参拝してきた」といったドラマファンの投稿が数多くみられる。

 宇治陵とはどのようなものなのか。

 文化財を担当する市歴史まちづくり推進課によると、同市木幡の丘陵地は古墳時代から多くの墓が築かれ、平安時代になると藤原一門の埋葬地になった。一帯が宇治陵と呼ばれるようになったのは明治時代中期で、政府が藤原氏から天皇に嫁いだ女性や親王計20人の陵墓に定めた。道長の娘で紫式部が仕えた彰子も含まれている。

 現在、宇治陵は大小37ブロックに分けられているが、誰がどこに葬られているのかは特定されていない。宮内庁の管理地で立ち入ることができず、本格的な発掘調査が行われてこなかったからだ。

 宇治陵の一部には、皇族ではない藤原一門の墓と伝承されてきたものもある。道長の墓と言われてきたのが32号陵だ。松殿山荘(重要文化財)の西側にある住宅1、2軒分ほどの小規模な区域で、現在はうっそうと草木が生い茂っている。

 「浄妙寺の位置からすると、道長の墓は別の場所にある。32号陵は明確なエビデンスがない俗説」。宇治の遺跡に詳しい京都芸術大の杉本宏客員教授(67)はこう否定する。

 浄妙寺とは、道長が藤原一門を弔うために建てた菩提(ぼだい)寺。かつてその位置は不確かだったが、1967年以降の発掘調査で現在の木幡小辺りにあったことが明らかになった。

 道長の息子・頼通の臣下が書いた日記によると、頼通は「浄妙寺の大門より東に行き、道長の墓所に参った」という。この記述を踏まえると、道長の墓は木幡小の東側にあった可能性が高いという。他方、32号陵は木幡小のほぼ南側で、やや離れた位置にある。

 木幡小の東側からは高貴な人物しか手にすることができなかった中国伝来の青磁水注(重要文化財)が出土している。「青磁は骨つぼとみられる。道長を含めた藤原氏の墓はこの辺りに集まっていたのではないか」と杉本客員教授はみる。

 「この世をば わが世とぞ思う」と詠み、栄華を極めた道長。だが、史料からは実直な人柄も読み取れるという。こうした道長の実像とともに関係する宇治の遺跡が注目されていることについて、市歴史まちづくり推進課の谷澤潔課長は「これまであまり知られてこなかった宇治に関わる歴史に光が当たってうれしい」としている。